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【明治期の日本美術】2023/5/19 更新*

明治期の日本美術における様々な時代背景、および各々の作品の主な手法はどのようなものであったのかを再考することは、
ちょうど1887年に創立された東京美術学校の学長や画学生であった画家たちを考えざることを避けては通れない。
当時の日本には美術という概念は存在しなかった訳ではなかったが、美術が表立って言葉としてある訳ではなかった。
ましてや日本美術という言葉すらなかったのであった。パリ万博での日本の立ち位置は『工芸』に位置づけられるようなもので、
それは後にヴェネツィアビエンナーレという芸術祭が出現した時も、日本は同様の傾向にあったようである。

本論文では数多の明治期の情報収集、また美術館および博物館へのフィールドワークまでを行った。
主な研究目的は明治期の美術の理解をすることで、現代における美術家の、その源流には、
どのようなアカデミズム、芸術運動、教育、作品が存在していたのかを知ることができること。

1、 芸術作品における意味の変遷について:美術史の中で、明治期の日本美術における作品が持つ意味や人物の評価がどのように変化してきたのか、それに影響を与えた社会的、文化的背景について考察する。
明治期の日本の美術家
・正木直彦
略歴・時代背景:
美校の4代目の校長が正木直彦(1862~1940)である。
1932年3月、在任じつに31年におよんだ校長を退任した。
就任が1901年だから、20世紀の3分の1も美校を率いたことになる。しかし岡倉天心と正木直彦の2人は、1862(文久2)年生まれの同い年。
明治維新(1868)年以降、19世紀後半の美術界は、欧化主義・国粋主義といった政府の方針をめぐって、西洋系と伝統系、それぞれのなかでの新旧両派が、熾烈な競争をくり広げていた。
20世紀に入ってようやく、両者は共存へと向かう。その歴史を美校では、前者の19世紀を天心、後者の20世紀を正木が背負った形になっているのだ。だから後者での調整役としての正木の性向は、それ自体が時代的な役目を背負っていた。
まだ美校騒動(1898年)の余韻がのこる就任早々、辞職した下村観山の復職を天心に求めたのも、また退任まぎわの1931年、校内の中心地に天心の銅像を建てたのも、正木だった。そしてもう1点、正木と岡倉は2人ともに文部官僚出身の校長だった。
正木は初め小学校教諭をして、それをやめてから東大、文部省に入ったため、天心とは重なっていない。
実際、正木までの校長は、すべて官僚だった。しかし、つなぎ役の赤間信義(文部省)を経て、2ヵ月後の同年5月、西洋画科教授の和田英作が新校長になったことは、美校史上の画期となるできごとだった。教授会が選出し、一方でなお帝国美術院長の職にあった正木が推薦するという形で、初めて作家校長が生まれたのである。和田は、岡田三郎助とともに長く黒田清輝を補佐してきた人物だ。作家校長という意味では、この黒田が最初でもおかしくなかった。黒田は、正木に勝るとも劣らない美術行政家でもあったからだ。現職のまま、正木より早い2代目の帝国美術院長となり(初代は森おう外)、貴族院議員にもなったが、1924年にすでに歿していた。
この和田英作を最初として、とくに民主化と大学自治が進められた戦後は、学内から学長が選出されていくことになる。
(1)

・黒田清輝
略歴・時代背景:黒田清輝(1866~1924)は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえる。ことに明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全般におよんだ。現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた黒田は、幼少時に上京、伯父黒田清綱(きよつな)の養嫡子となった。
17歳で、法律の勉学を目的にフランスに留学したが、二年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphael Collin)に師事。九年間にわたる留学中、アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な視覚を学んだ。明治26(1893)年に帰国し、日本にそれまで知られていなかった外光表現をもたらし、その背後のリベラルな精神と思想とともに大きな影響を与えた。明治29(1896)年には、美術団体白馬会(はくばかい)を結成、またこの年創設された東京美術学校(The Tokyo Art School)の西洋画科の指導者となった。以後、黒田は、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てるとともに、やがて美術界の中枢となった。
また、画家としても、外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめた。後年には、絵画制作のかたわら、貴族院議員や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍した。(2)

主な作品:「智・感・情」
「智・感・情」〈黒田清輝筆 一八九九年/油絵 麻布〉
絵画 / 明治 / 関東 / 東京都
東京都
明治
3面
東京文化財研究所 東京都台東区上野公園13-43
重文指定年月日:20000627
国宝指定年月日:
登録年月日:
国宝・重要文化財(美術品)
文化遺産オンライン
解説:本図は日本人モデルを用いた裸婦像の嚆矢といわれるが、裸体画論争に対する画家の意識的な制作ともみえる。しかし、モデルの個性を切り捨てプロポーションを極端に理想化し、背景を日本画のような金箔地としていることなど、画家の制作意図がむしろ本格的な構想画の制作にあったことを示している。本図は明治三十二年に加筆されたあと、同三十三年(一九〇〇)パリ万国博覧会に出品した意欲作であって、日本側出品者では最高の銀牌【ぎんぱい】を受賞しているが、黒田が当初より万博出品を予想していた可能性も指摘されている。このような構想画の試みは、藤島武二や青木繁らに形を変えて引き継がれていく。
 日本洋画史の上で黒田の画業を評価するとき、明度の高い色彩をもって日本的な画題を描いて見せた「舞妓」や、日本的な洋画表現を具現した「湖畔」と並んで、西洋の正統的な絵画観を日本に移植しようと努めたという点で、裸婦を用いて抽象的概念を表現しようとした記念碑的な作品である本図もまた、高い価値を有しているといえよう。(3)

「昔語り」
昔語り下絵構図II 1896年
『昔語り』の着想をえたのは帰国直後の京都旅行(1893年秋)のこと。清水寺附近を散策していて高倉天皇陵のほとりで清閑寺に立ちより、寺の僧が語った小督悲恋の物語を聞いたとき、黒田は現実から離脱するような不思議な感動におそわれた。2年後『朝妝』裸体画事件のあと、ときの文相西園寺公望とあって語り合い、西園寺の斡旋で住友家との契約がなり、翌年から制作がはじめられた。本館で所蔵する木炭素描にみられるように、全身、部分図、裸体まで入念なデッサンが試みられ、さらに油彩による習作が描かれて完成作品がつくられていった。制作が完全に終ったのは2年後の1898年のこと。完成作が焼失してしまった現在、図の全体を知るにはこの『構図II』しかない。黒田の入念な制作過程、習作の多さをみても、最高潮期の中でも代表的な作品にあげられるべき作品だった。
(4)

「湖畔」こはん(麻布に油彩)
東京都
明治/1897
1面
東京文化財研究所 東京都台東区上野公園13-43
重文指定年月日:19990607
国宝指定年月日:
登録年月日:
国宝・重要文化財(美術品)
文化遺産オンライン
解説:箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの麗人の像は、現在では《湖畔》の題名でひろく知られているが、明治30(1897)年の第2回白馬会展では《避暑》の題で出品され、1900年のパリ万国博に《智・感・情》などとともに出品されたものである。明治30年夏、黒田は照子夫人を伴って箱根に避暑のため滞在、そのときに描かれたものである。のち、夫人はそのことを回想して、「私の二十三歳の時で、良人湖畔で制作しているのを見に行きますと、其処の石に腰かけてみてくれと申しますので、そう致しますと、よし明日からそれを勉強するぞと申しました。・・・・雨や霧の日があって、結局一ヶ月ぐらいかかりました」と語っている。日本の夏の高地のくすんだ風景、湿潤な大気を淡い色調と平滑な筆致により、スナップショット的な構図のなかに見事に描きだしている。(5)


・横山大観
略歴・時代背景:横山大観は、昭和32年暮以来気管支炎のため自宅で療養中であったが、その後の衰弱はなはだしく、33年1月26日逝去した。享年89歳。本名秀麿。明治元年9月18日水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれた。明治11年に一家をあげて上京、大観は湯島小学校から東京府中学校、東京英語学校に入学し、傍ら渡辺文三郎に鉛筆画を習っていた。明治21年母方の親戚横山家を継いで改姓、またこの年東京英語学校を卒業し、結城正明について日本画を学び、翌年、新設の東京美術学校に入学。明治26年、「村童観猿翁」を卒業制作として同校を卒業、暫く母校の予備校教師となった。ついで、28年京都市美術工芸学校教諭となり京都に赴任、この頃、古美術の模写に従事し技法の研究につとめていたが、翌29年には東京美術学校に迎えられて帰京。同年日本絵画協会の第一回共進会に「寂静」第2回展に「無我」などを出品、いずれも受賞している。31年、校長岡倉天心の退職とともに同校を退き、日本美術院の創立に参加し、評議員ならびに正員となった。以来、日本美術院と日本絵画協会の聯合共進会に作品を発表し、天心の日本画革新運動の主要メンバーとなつて新時代の日本画創造に全力を注いでいった。
線描をすてて、いわゆる朦朧体の画法をあみだし、「屈原」「釈迦父に逢ふ」を制作した明治30年代は、新しい日本画をもとめての苦闘の時代であった。(6)

主な作品:無我 むが
絵画 / 明治
横山大観筆
明治30年(1897)
絹本着色
148.4×87.2
1幅
文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/431554
解説:老荘思想に発し、禅の境地としての根源的な命題である「無」の絵画化、あるいは擬人化がこの作品のテーマとされる。
日本の季節感のなかに「無」の理想を描こうとした大観の着想は、過去の人物画に直接的な手本を探せない、新しい絵画の創造につながった。
(7)

・菱田春草
略歴・時代背景:菱田春草は、南アルプスを望む風光明媚な長野県の飯田で生まれ育った。
菱田家は代々、飯田藩主堀家に仕えて御側用人を務めたこともある家柄で、幕末の動乱を生き抜いた春草の父は、飯田に設立された第百十七銀行の銀行員として生計を立ている。春草は1874(明治9)年9月に菱田家の三男として生まれ、本名は三男治(みおじ)といった。
三男治は幼い頃から絵が上手で、利発ながらわんぱくな子供だったといわれている。
満5歳で地元の飯田学校に入学し、優秀な成績で高等科を進みます。のちに洋画家として活躍する中村不折(なかむらふせつ)にここで図画と数学を教わった。
法律を勉強したいと言う春草に、画家になって画才を活かすよう強く勧めたことを不折は後に回想している。
ちょうど三男治が飯田学校を卒業した翌年の1889(明治22)年の2月、東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校する。
受験するにあたって、それまで学校の図画教育しか受けていなかった三男治は、兄を頼って上京。美校の助教授であった結城正明(ゆうきまさあき)に教えを請い、翌年の1890(明治23)年に三期生として東京美術学校に入学した。
東京美術学校時代
東京美術学校に入学した菱田春草は、はじめから天才的な画才を示したわけでなかった。
先輩にあたる溝口禎次郎(みぞぐちていじろう)の回想によると、二年生頃から著しく成績が上がり、その傑出していることが学校中の評判になって、卒業期にもなるとその名声と期待は素晴らしいものだった。
当時の美術学校の実習は、「古画の模写」、「写生」、「新案」で構成されており、観念的な意味の表現を目指す「新案」は同校の特徴の一つでした。春草は特に写生やこの新案を深く学びますが、卒業制作として提出した『寡婦と孤児』は、審査の場で論争を巻き起こす。
最優秀を主張する橋本雅邦(はしもとがほう)や岡倉天心(おかくらてんしん)に対し、ある教授が「化物絵」だとののしって落第を主張した。
菱田春草筆『寡婦と孤児』部分 明治28(1895)年 絹本彩色 東京藝術大学蔵 出典:東京国立博物館デジタルコレクション「新古画枠第8編(菱田春草)」
結局、校長の天心の裁定で、優秀第一席が与えられて決着しますが、この作品を天心や雅邦が高く評価した理由は、そこに「意味」の表現が認められたからだった。
ちょうど日清戦争が終結するというこの時局、『太平記』に題材をとったといわれるこの作品に、春草は国民が共通して抱いた感情を表現したという。伝統を学び、写生を実践し、意味の表現を図ることが新時代の日本画であるという母校の教えは、その春草の絵画観の軸となった。
古画の模写と画壇デビュー
東京美術学校を卒業してすぐ、春草は帝国博物館の模写事業に抜擢され、1895(明治28)年から翌年にかけて何度か近畿へ赴いた。
これは博物館の美術部長を務めていた天心の発案で、寺社に所蔵される古画の記録と活用を目的としており、描き手として最年長の小堀鞆音(こぼりともと)以下、横山大観や下村観山らとともに最年少の春草が選ばれた。
一緒に参加した溝口宗文(みぞぐちそうぶん)によると、「菱田君の写し出す色がいかにも如実で巧妙なのである」、また「緑青とか群青とかのごとき岩ものゝ古色を極めて無造作に作り出す」と、春草の卓越した再現力を伝えている。
(8)

主な作品:紙本著色落葉図〈菱田春草筆/六曲屏風〉
絵画 / 明治 / 九州
菱田春草
明治/1909 一双
重文指定年月日:19560628
国宝指定年月日:
登録年月日:
公益財団法人永青文庫
国宝・重要文化財(美術品)
解説:明治時代の作品。
(9)

下村観山
略歴・時代背景:下村観山は1873(明治6)年に和歌山市に生まれ、本名を晴三郎といった。生家は紀州徳川家に仕えた能の小鼓の家系だったが、観山が8歳の時に一家で東京に移住し、父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とする。
観山は祖父の友人だった藤島常興(ふじしまつねおき)という人に絵の手ほどきを受けますが、常興は狩野派の画家、狩野芳崖の父の門人だったことから、観山は芳崖に託された。
その後、芳崖が制作で忙しくなったため、1886(明治19)年にその親友である橋本雅邦に紹介され、師事することになった。
観山はこの頃からすでに画才を発揮し、アーネスト・フェノロサらが主宰する「鑑画会」の出品時には、「年齢十三歳、橋本氏の門弟なるが、その揮毫の雪景の山水はあたかも老練家の筆に成りたるが如く、実に後世恐るべしとて、見る人の舌を振へり」と、新聞で絶賛されたという。
東京美術学校時代
1889(明治22)年、観山16歳の時に東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学した。
ちなみに「観山」の雅号は学生の頃から使い始めますが、「人あり、来つて塵世の事を問へば笑つて対えず、起つて山を観る」という詩からとられたもので、観山の性格をよく表しているといわれている。
1894(明治27)年、東京美術学校卒業と同時に21歳で同校の助教授となり、画家人生の順調なスタートを切った観山でしたが、1898(明治31)年、いわゆる「美校騒動」と呼ばれる事件が起こる。
東京美術学校の生みの親であり、校長であった岡倉天心(おかくらてんしん)に私怨を抱いた教授らによって怪文書が出回り、これにより天心が辞職。観山もこの時に橋本雅邦、横山大観、菱田春草らと共に同校を辞職するが、後に日本美術院正員のまま教授として復帰している。
同じ年の7月、天心らによって「日本美術院」が東京、谷中に創設され、その活動は日本画の世界に新たな刺激を与えることになった。
(10)

天心岡倉先生(草稿)
東洋画(日本画を除く) / 大正
下村観山 (1873-1930)
大正11年/1922
掛幅装,紙本淡彩
136.0×66.7
1幅
落款「観山謹寫」/印章「観山」白文長方印(11)

美術史の中で、明治期の日本美術における作品が持つ意味や人物の評価がどのように変化してきたのか。
明治時代以前の日本語には、「美術」の意味を持つ言葉がなく、「日本美術」という概念もなかった。
それは、もちろん、美術の作品が物質的に存在しなかったという意味ではなく、存在こそしたものの、一般的な「美術品」としてではな
く、宗教と関係があるものとか、工芸品として考えられた。「美術」、「日本美術」と「日本美術史」という概念の形成は 1880 年代に始まった。その推移はとても複雑だった。概念の形成には、政府も個人も参加したが、もっとも大切なのはフェノロサと岡倉天心だ。
「美術」という言葉はドイツ語の「Kunstgewerbe」、フランス語の「beaux arts」、英語の「fine arts」の類語で、1873 年に開催されたウィーン万国博覧会の目録ではじめて確立した。でも、その言葉が日常の言語の一部になったのは 1882 年だ。(12)

(1)タイムカプセルに乗った芸大
筆者:佐藤道心
https://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/b4.html
(2)黒田記念館
https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html
(3)文化遺産オンライン 智感情 黒田清輝
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207340
(4)黒田記念館 黒田清輝 昔語り 黒田清輝
https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/mukasi01.html
(5)文化遺産オンライン 湖畔 黒田清輝
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/16904
(6)東京文化財研究所 横山大観
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8862.html
(7)文化遺産オンライン 無我
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/431554
(8)藝大アートプラザ 菱田春草
https://artplaza.geidai.ac.jp/column/12526/
(9)文化遺産オンライン 菱田春草 紙本著色落葉図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199100 
(10)藝大アートプラザ 下村観山
https://artplaza.geidai.ac.jp/column/11062/
(11)文化遺産オンライン 下村観山 天心岡倉先生(草稿)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/165387
(12)アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書 明治日本における「ナショナル美術」の概念
ロシア国立人文大学 マカロバ オリガ
https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_17.pdf

2、現代美術における伝統と革新の関係について:美術の現代的な表現手法や技術が伝統的な美術に対してどのような影響を与えているのか、また、それが美術の価値や評価にどのような影響を与えているのかについて考える。
黒田清輝の表現手法:黒田清輝は1893年(明治26年)に9年間のフランス生活の後帰国し、1896年(明治29年)に設置された東京美術学校の西洋画科に迎えられ、後進の指導にあたった。その後、明治前半期の褐色を主調色とした旧派(脂派)にかわって、黒田の紹介した明るい色彩の外光派(折衷的印象派)表現様式が広く受け入れられていくようになった。
湖畔は1897年の箱根の芦ノ湖畔で、黒田が夫人をモデルとして制作した作品である。夫人の記憶によれば黒田は下絵なしに直接キャンバスに向かったという。
完成後は、親戚である樺山愛輔氏の洋館に掲げられていた。「湖畔」は1987年の第2回の白馬会展に「避暑」というタイトルで出品され、好意的な批評が大半であったようである。また、1900年のパリ万国博覧会に出品された。賞を獲得することはできなかったが、購入したいと画廊が申し出たという話が伝わっている。
黒田が亡くなると、「湖畔」は遺族の手もとに戻され、1930年に黒田の遺志によって設立された美術研究所(現東京国立文化財研究所)に寄贈され、現在に至っている。紫外線蛍光写真を見る限り、画面上に補彩等の跡は確認できなかったと報告されている。ただし、1965年以降に格子で補強された板の上にキャンバスを貼り付けたと考えられる修復処置がされたとの報告もある。(1)

菱田春草の表現手法:基本的な美術史辞典として知られる『新潮世界美術辞典』では、朦朧体は次のように解説されている。
明治後半期の没線彩画の手法を用いた日本画の画風。横山大観・菱田春草らが、岡倉天心の指導と洋画の外光派に刺激されて、伝統的な線描を使わずに彩描を絵具をつけない空刷毛を用いてぼかすことによって空気や光線を表そうとした新しい表現の試みで、当時の批評は悪意と嘲罵をもって縹渺体、朦朧体と評した。浪漫主義(ロマン主義)的風潮を背景に西欧絵画の造形と対決して近代的日本画に革新をもたらした意味で、その影響は大きかった。
「没線彩画」を簡単に説明すると「骨法(輪郭線)」を用いずに、色彩のみで仕上げた画風」という具合であろうか。例えば、明治 33(1900)年の春草筆《菊慈童》〔図 1〕を例にみてみよう。背景の山水風景は色彩による没骨2、さらに簡潔にいえば、色彩による濃淡表現が施されている。没骨とは、骨法(輪郭線)を用いずに、墨や色彩の濃淡のみで対象を描く東洋画の技法である。しかし、同時代の批評者は、伝統的な線描を否定した春草らの試みを批判した。すなわち「朦朧体」という言葉は、厳密にいえば批評者から発生した批評語である。
『新潮世界美術辞典』の解説のように、朦朧体の表現目的(対象)には、しばしば「空気」や「光線」が挙げられる。これは、岡倉が大観に発した「空気を描いたらどうだ」という助言が影響しているという。
先行研究において、春草や大観の朦朧体は、どのように解釈されてきたのであろうか。当時、春草と交流があった文学博士の斎藤隆三氏(『日本美術院史』昭和 19[1944]年)は、朦朧体を「没骨描法」として捉え、次のように解釈している。
一切の顔料はこれに胡粉を混じて具にし、それを画面全体に適宜に塗抹して、或は地隈を取り、或は濃淡を作り、その色調をもって四時の情緒、朝暮の空気までも表わさんと試みたものがそれである。中にも落想に、構図に、材料に、手法に、常に新規の工夫を積んで怠らなかったものは春草を最とする。(2)

横山大観の表現手法:横山大観の作品の特徴は、「朦朧体」と呼ばれる線画技法にある。
「朦朧体」とは、色彩の濃淡によって構図や被写体の形、光の加減などを表した技法で、輪郭線をはっきりと描く日本画の伝統的な画風とは全く異なるものである。
美術学校時代からの恩師である岡倉天心が「空気を絵で表現する方法はないものか」と言ったのをきっかけに誕生したと言われている。薄めた墨を紙の上で伸ばすことで美しいグラデーションを作り出し、モヤがかかったような幻想的な表現を実現した。(3)
また大観と春草の朦朧体の作品は,ホイッスラーのトーナ
ル・ペインティングとの類似が指摘された。(4)

(1)黒田清輝「湖畔」調査報告
井口智子・加藤淳子・歌田眞介・三浦定俊
https://www.tobunken.go.jp/ccr/pdf/38/pdf/03814.pdf
(2)菱田春草の絵画表現における同時代性 : 日本美術院の理想をめぐって
田邉 咲智 2021 関西大学
(3)古美術八光堂
https://www.hakkoudo.com/weblog/2021/01/29/0109/
(4)大学美術教育学会 「美術教育学研究」 第52号 2020年 113
トーナル・ペインティングと朦朧体
小野文子 3 欧米滞在中の展覧会評とホイッスラー
     
 
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