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序章

 夢を見ていた。
 白くぼんやりとしていて、あやふやな夢だ。
 これは今に始まった事ではない。少女はずっと、こうした夢を見ているのだ。
 その夢は時折現実と混じっている様にさえ感じて、どこまでが夢でどこからが現実だったのか、彼女にはわからなかった。
 視界が白くなったり、暗くなったりはする。夢の中では何処かで走り回ったり遊んだりしている気もした。
 だが、実際にそれが現実ではない事を頭の中ではわかっていた。だから彼女はその夢の中を楽しみたくて、全力で遊んだ。
 時折、耳元で誰かが囁きかけている。それは彼女の母の声だった。毎日夢の中で母の声が聞こえてきて、彼女はその声に応えるべく、必死に顔を動かしたり瞼を動かしたりしている──つもりだ。
 実際にそれが叶っているかはわからない。彼女の身体は、いつからか彼女の意思で動いてくれなくなってしまったのだから。
 どれだけの間、そんな日々を過ごしているのだろうか。いつから夢を見ているのか、どれくらいの間夢を見ているのかさえわからなかった。少女には、もう時間という概念がなくなっていたのだ。
 ただ、そんな彼女でも、何となく察している事がある。
 それは、意識を覆う白い靄もやがどんどん濃くなっている、という事。
 この靄に覆い尽くされた時、きっと自分は自分ではなくなってしまう。彼女は混濁とした意識の中で、何となくそんな予兆を感じていた。
 それほど長い人生ではなかった。高校に入学したばかりで、アルバイトをした事もなければ、恋や青春もまだ知らない。人としてもまだまだ未熟だ。
 もっと世界を知りたかったし、もっと人生を満たしたいと思っていた。いや、当たり前にそうできると思っていたのだ。
 だが、彼女にその人生は訪れなかった。こうして白い靄の中で夢を見る以外、何も許されなくなっていたのである。
 そして、もうじき夢を見る事さえも許されなくなる──何となく、彼女の意識が自身にそんな警告を発していた。
 彼女のこの十六年にも満たなかった世界は、もうすぐ終わる。自分が自分でなくなる。自我がなくなり、自らの願いや希望、そして記憶さえも全て消え去ってしまうのだ。
 靄が彼女を包んでいくにつれて、どんどん意識がぼんやりとしていく。自らの自我が、記憶が薄れていく様がよくわかった。きっと、水の中に溶けていく砂糖はこんな気持ちなのだろう。

(ねえ、待ってよ。そんなの……嫌だよ)

 意識が飲み込まれる直前、少女は抗う様にして不満を呟いた。

(どうして私だけこんな目に遭わないといけないの? どうして私だけ、皆が知ってるものを知れないの? 経験できないの? そんなの……不公平だよ)

 不平不満を訴え続ける。
 訴えても何も変わらないのは自分が一番よくわかっていた。しかし、きっとここで抗わなければ、もう自分が自分でいられる時間は終わってしまう──そんな予兆を自身の身体が感じていた。

(ねえ、お願い。私に……もう少しだけ、時間を下さい。神様がいるのかわからないけど、もしいるなら、ほんの少しでいいから私に希望を持たせて。お願い……お願い!)

 少女は強く念じた。
 何か特別に信仰していた神がいるわけではない。願いを聞き入れてくれるなら、どの神でも良かった。せめて願うしかないのなら、願う事しか許されないなら、願うしかなかった。それが彼女に許された、最後の抗いなのだから。
 しかし、彼女の嘆願は虚しく靄に飲み込まれていく。もちろん、何かが起こるはずもなかった。
 白い靄に全て覆い尽くされるその瞬間まで、ただ夢を見る事しかできない世界。それだけが、ただ彼女に許されていた。
 その世界も、もうすぐ終わる。この靄が全てを覆い尽くした時には、彼女の世界は完全なる終焉を迎えるのだ。
 
(きっと、次が最後の夢かな……)

 何となくではあるが、そんな確信があった。
 自分の身体の事は、自分が一番よくわかっている。きっと、死期を悟った人間というのはこんな感覚なのだろう。

(次に見る夢。それが私に許された、最後の時間)

 だったら、最後まで精一杯生きてやろう。夢の最後まで、自分の人生を生き続けてやる。それが、この理不尽な世界に対して彼女ができる唯一の抗いなのだから。
 少女はそう決心をして、最後の夢に身を委ねた。
 奇跡が起こる事を願いながら──
 
         *
         
 最後に見る夢の世界は、妙に暑かった。いつぶりかというぐらい久々に、全身に暑さを感じていた。
 不思議な感覚だった。これまでの夢では、暑さや寒さなど感じた事がなかったからだ。

(え……?)

 いつもと異なる感覚に違和感を覚えて、少女は恐る恐る瞳を開ける。すると、目の前には驚くべき光景が広がっていた。
 そこは、彼女の知っている、彼女が住んでいた町の景色だった。あまりに再現度が高く、夢・だ・と・わ・か・っ・て・い・る・の・に・夢だと思えなかった。

(え……? え!?)

 困惑して自らを見て、また驚く。彼女は自らの制服を身に纏っていたのだ。
 この制服は意識が混濁する前まで、毎日着ていたものである。実際にはそれほど長い間着ていたわけではないけれど、この制服と共に色んなものを経験すると信じていた。だが、ある時を境に彼女にはそれすら許されなくなってしまったのだ。
 少女は愕然としながら周囲を見渡した。
 そこは公園だった。見覚えのある公園だが、どこかはわからない。一度来た事があるのだろうが、それほど思い入れがある公園ではなかった。

(どこだっけ、ここ……? あっ、図書館の近くの公園かな?)

 昔の記憶を掘り起こしながら、今の自分の現在地を思い浮かべる。
 確か中学生の頃、図書館帰りによく寄っていた公園だ。特段想い出があるわけではないが、人が少なく本を読むのに最適だった場所である。
 
(何でこの公園なんだろ?)

 少女は疑問に思いながらも、周囲を見回す。
 木々は青々と茂っていて、風が吹くたびに湿気が身体を覆った。気温やこの湿気からして、今は梅雨か夏である事は間違いなさそうだ。
 しかし彼女は今、制服の上着を羽織っている。スカートとブラウスも冬用で、明らかに春の頃合いの出で立ちだ。
 それもそのはずである。彼女はこ・の・服・装・で・夏・を・経・験・し・て・い・な・い・のだから。

(暑い……)

 無意識にブラウスの襟元をばたつかせた。
 ただ、この『暑い』という感覚自体随分と久しぶりで、少女はうっすらと笑みを漏らす。暑いのはどちらかというと好きではなかったが、暑さを感じれたのが嬉しかったのだ。
 
(これは夢、なんだよね……?)

 とりあえず暑さを和らげる為、制服の上着を脱ぐ。
 いつもの夢とはあまりに勝手が異なるので、戸惑いを隠せなかった。
 いつもは受動的で映像を見ているといった感覚に近いのだが、今回は身体の自由が利く。暑さ含め、あまりにリアリティがあったのだ。

(あ、そうだ。スマホ!)

 彼女は現実世界の習慣をふと思い出し、上着のポケットに手を突っ込んだ。
 毎日の生活の中で肌身離さず持っていたものだ。スマートフォンがあれば調べものができるし、誰かと連絡を取る事ができる。そう思ったものの──ポケットの中には何も入っていなかった。
 だよね、と彼女は小さく嘆息して、ベンチに座り込んだ。
 状況どころか年月日さえもわからない。そもそも、ここが自分の知っている世界と同じなのかさえもわからなかった。
 ただ、一つ確かな事がある。
 それは、身体が自由に動くという事。自分の意思通りに身体が動いて、意識もはっきりしている。これは普段の夢とは大きく異なる点だった。
 最後の夢だからリアリティがあるものを見せてやろうと言う計らいだろうか。

(それならそれで、せめて夏服くらい用意してよ)

 彼女は不満を口にしながらも、手で自らの顔を扇いだ。
 その時だった。ぽつり、と頬に水滴が当たる。その水滴は一滴二滴と増えてきて、次第に雨となっていた。

(やだ、透けちゃう)

 自らの白いブラウスが水を吸って肌色が透けてきたのを見て、彼女はすぐにブレザーを羽織り直した。暑さはあるが、下着が透けてしまうよりはマシだ。
 服が雨を吸い、徐々に重みを増していくと同時に、その冷たさと不快感が身体を覆っていく。
 どこかに行かなければならないのはわかっていたが、いきなり外に放り出されて何の情報もないのでは、どこに行けばいいのかすらわからない。スマートフォンや財布もなければ、自分の置かれている状況すらわかっていないのだ。
 目を瞑って途方に暮れていると、ふと彼女の体を影が覆った。それと同時に、雨音が頭上から聞こえてきて、水滴が彼女に当たらなくなっていた。

「あの……大丈夫か? 夏って言っても、あんまり雨に当たると風邪引くと思うけど」

 声が聞こえてきて、彼女は驚いて目を開けた。
 そこには、自分の上に傘を翳かざしている男の子がいた。彼女と同じ学校の制服を着た、男子生徒だ。彼は心配そうな顔で、彼女を眺めていた。
 彼を見たのは初めてだった。だが、その優しそうな顔には不思議と惹かれていった。
 それと同時に自らの瞼が熱くなって、頬から何かが零れ落ちる。

(夢じゃ……なかったんだ)

 今の今まで、夢か現実かの区別がつかなかった。いや、きっとこれは夢だ。本来、自分がこんな場所にいるはずがないのだから。
 しかし、同時に完全な夢でもなかった。身体に当たる雨とその冷たさ、湿気、そして今目の前にいる彼が自分を認識している事がそれを証明していた。
 少女はこの時悟った。本当にこの夢・が自分に遺された最後の時間で、この夢・で世界への未練を断ち切らなければならないのだ、と。

「あ、えっと……」

 同じ学校の制服を着ている少年は、戸惑っていた。
 それもそうだろう。この暑い季節に、見知らぬ女生徒が冬服のまま公園で佇んでいて、更には自分を見て涙しているのだ。頭のおかしな女だと思われたに違いない。

「……とりあえずこのままだと風邪引くから、どこか入ろっか?」

 少年は鞄の中からタオルハンカチを出して、少女の肩に掛けてくれた。
 彼女の制服は既に結構な雨を吸ってしまっていて、とてもではないがタオルハンカチで何とかなるものではない。だが、不器用ながらもその男子生徒の優しさに、どこか心が暖まった。こうして誰かの優しさを直に感じるのは、彼女にとって随分久しぶりだったのだ。
 促されるまま立ち上がって彼を見上げると、彼は困惑しているのか気まずいのかわからないが、目を逸らして頭をぽりぽりと掻いていた。
 何かを思い立った様に「あっ、そうだ」と彼ははっとして少女の方を向き直った。

「君、名前は?」
「名前? えっと、柚ゆず──」

 彼女は咄嗟に自分の本名を伝えようとしてしまったが、何となくそれは危険な気がして、既すんでの所で思い留まる。
 きっと、今の自分はこの世界にとって異物だ。それを彼女は本能で悟っていた。なればこそ、本名を言うわけにもいかない。
 本当の自分はきっと、今・も・あ・の・場・所・に・い・る・は・ず・な・の・だ・か・ら・。

「じゃなくて、えっと……」
「……違うんかい」

 彼女の戸惑いに、少年が呆れた様にツッコミを入れた。
 それが何だか可笑しくて彼女がぷっと吹き出すと、少年もようやく顔を綻ばせた。

「うん、ごめん。間違えちゃった」
「自分の名前間違うってあるのか?」

 少年の言葉に、少女は「あるのっ」と少し怒って返す。
 誰かと笑い合った事自体久しぶりだったので、それだけで胸が暖かくなった。
 あまりに唐突で、何一つ理解が追い付かない。しかし、自身が奇跡の中にいる事だけはわかった。
 そして同時に、もう一つの事を悟っていた。
 それはきっと、この優しい少年が自分にとっての最後の奇跡なのだろう、と。
 少女はそれを確信して、彼に自らの新・し・い・名を告げた──。
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1章 全ては梅雨の終わりから始まった

「よっ、海殊みこと! 今日皆でカラオケ行くってなったんだけど、お前も来いよー!」

 帰りのホームルームが終わるや否や、滝川海殊たきがわみことの席を友人の須本祐樹すもとゆうきが訪れてそう言った。
 海殊みことは小さく溜め息を吐くと、祐樹ゆうきに申し訳なさそうな笑みを向ける。

「悪い、今日は図書館に寄らないといけないんだ。返却日なんだよ」

 言いながら彼に鞄の中の本を見せてやる。そこには市立図書館で借りた本が三冊入っていた。

「もうすぐ学期末テストだし、ついでに勉強でもしていこうと思って。祐樹も来るか?」
「かーッ、真面目か! お前、今が何月かわかってんのか!?」
「は? 七月だろ」

 海殊は黒板の文字をちらりと見て言った。
 黒板には七月一日と書かれている。今日から七月で、一学期最後の月が始まったのだ。そして、それと同時にそれは高校生活最後の一学期末テストである事も意味していた。
 海殊は推薦入試枠を狙ってるので、この学期末を落とすわけにはいかないのである。

「そうだよ、七月だよ! 七月と言えば何があると思う? そう、夏休みだよ! 夏休みと言えば、お祭りや花火といった恋人のイベントが盛り沢山。カノジョとこのイベントを迎える為には今頑張らなきゃいけない。そうだろ? その為のカラオケだよ! 僕と一緒にカノジョ作ろうぜ! 二組の真昼ちゃんも来るんだしさ!」

 訊いてもいないのに、祐樹が語り出す。
 無論、そんな事は訊かずとも海殊もわかっていた。彼が昨年末のクリスマス前から恋人作りに熱心な事も、その全てが失敗に終わっているという事も知っている。
 それもそのはずで、彼はいつも海殊に一緒にカノジョを作ろうと誘ってきていたからだ。その都度、海殊は断り文句を探しては流していた。
 ちなみに、二組の真昼ちゃんとやらについては全く知らない。海殊はそういった同級生の女の子情報に疎く、せいぜい同じクラスの女の子の名前と顔が一致している程度なのだ。

「悪いな、頑張ってカノジョ作って夏を楽しんでくれ」
「釣れねーなぁ、おい。お前、顔そこそこ良いんだからその気になればすぐにカノジョ作れるだろ」
「んな事ないって。祐樹のがモテるよ。んじゃな」

 祐樹を待っているであろうクラスの男子が視界の片隅に入ったので、話を終わらせた。
 彼らにも適当に挨拶をして、そのまま教室を出る。祐樹の残念そうな視線が背中に突き刺さっている事には気付いていたが、敢えて気付かないふりをした。
 図書館には本当に行くつもりだったのだが、本の返却日は明日だし、まだ本は読み終えていない。別に今日でなくても良かったのだが、どうにもカラオケやら合コンやらに興味を抱けず、断り文句として図書館を使ったのだ。
 恋愛それ自体に興味がないわけではない。ただ、海殊は大人びた性格をしているせいか、周囲の生徒とテンションを合わせたり騒いだりするのが苦手なのである。
 物は試しだと思い、先月は体育祭の打ち上げとやらにも参加したが、居心地が悪くて全く楽しめなかった。むしろ、騒いでいる事で周囲の客に迷惑を掛けているのではないかと申し訳なく思えてしまった程だ。
 社交性はそこそこあるのでぼっちというわけではないが、クラスにとっては居ても居なくても良い存在、という立ち位置を保っている。彼自身がそれを望んでいたのだ。海殊は友達と騒ぐよりも、一人で本を読んだり、ゲームをしたりする方が好きなのである。
 最近はゲームにも飽きてきて、図書館で借りた本を読み漁っている事の方が多い。その本の中にある別の人の思想や人生に触れる事に喜びを感じる様になったのだ。
 ただ、そうした方向にいくと、どんどん自分が周囲と離れていく事を海殊は知っていた。現に、クラスメイト達との価値観が離れていっている。彼は可愛い同級生にも恋愛イベントにも、ショートムービーアプリにもUtubeにも興味が全く持てないでいたのだ。
 こんな事をしていては自分がどんどん時代に取り残されていくのは海殊自身わかっていた。しかし、それでも興味を持てないものには持てないのだから、仕方がない。
 きっと、自分はこのまま一人で過ごすのだろう──何となくだが、海殊はそんな風に自分を評価していた。

       *

「ふう……」

 海殊は一冊の本を読み終えると、小さく息を吐いた。
 彼は良い本に出会った時、それ以外の事に一切興味が持てなくなってしまうタイプだ。読み終えた時の読了感を満喫するのが最も好きな時間だった。読み終えて満ち足りた気持ちと物語が終わってしまったという寂しさが、何とも言えない感覚で好きなのだ。
 今読み終えたものは、『君との軌跡』という長編小説だ。何冊にも渡って、主人公とヒロインの出来事や試練、そして互いを信じ合いながら成長していく様が描かれていた。グランドフィナーレでは涙腺が思わず緩んでしまった程である。

(俺も、こんな風に誰かを好きになる事があるのかな)

 海殊はカウンターに本を返却しつつ、ふとそう考える。
 先程、祐樹には恋愛には興味がないようなそぶりを見せていたが、全く興味がないわけではない。彼がいつも心揺さぶられる作品は恋愛模様を描いているものが多かったし、きっとどこかで恋に恋をしているのだと思う。
 だが、それはクラスメイト達が望んでいる恋愛とはどこか違っていて、もっと心が燃える様な恋だと思うのだ。それ以外の事などどうでもよくなってしまって、人生を賭して相手の女性を想いたくなる様な恋愛を夢見ている。
 今読んだ物語の主人公の様に、一生懸命人を愛せる日が来るのだろうか。そんな日が来たとして、自分は一生懸命になれるのだろうか。
 恋を知らぬ海殊には、自分がそういった時にどうなるのかさえわからなかった。

(あ、やべ。もう閉館か。急いで帰らないと)

 海殊はスマートフォンを見て、時刻を確認する。八時五十五分だ。それと同時に、閉館のアナウンスが流れ始めた。
 この市立図書館は夜九時まで開館しているので、勉強や読書に勤しむ高校生としては大変有り難い施設なのである。
 海殊は慌てて身支度をして、その足で図書館を出た。
 今日は母親が日勤の日なので、もう帰って夕飯を作って待っているだろう。彼女は自分が早く帰れる日くらい一緒にご飯を食べろとうるさいのである。
 とは言え、プログラマーとして働きながら、女手ひとつでここまで育ててくれた母には感謝している。大学に進学すれば一人暮らしをする予定なので、それまでの間はできるだけ母と過ごしたいと思っていた。

「うっわ……降ってきやがった」

 海殊は図書館から出るや否や、大きな溜め息を吐いて傘を差す。
 日中は晴れていたのだが、今夜は雨の予報が出ていたのだ。念の為傘は持ってきていたが、梅雨の雨ほど鬱陶しいものはない。無駄に汗もかいてしまうし、とにかくジメジメとして気持ちが悪い。
 こんな日は早く帰るに限ると帰路を早歩きで進んでいたが、彼の足はふと途中で立ち止まった。
 そこは、図書館の近くにある公園だ。その公園自体に何か不思議な事があるわけではない。いつもと変わらぬ地味な公園だった。
 だが、その日はいつもと違う点がある。公園の隅っこのベンチに、女の子の姿があったのだ。

(……あの子、同じ高校か? 何してるんだろう)

 目を凝らして見てみると、そのベンチには海殊と同じく海浜法青かいひんほうせい高校の制服を着た女生徒の姿があった。
 長い黒髪で、華奢な女の子だ。遠目で見ている限り、少女は恋愛に疎い海殊でさえも惹かれてしまう程可愛らしく、そして美しかった。公園の街灯に照らされた彼女はどこか浮世離れしていて、それでいて消えてしまいそうなくらい儚かったのである。
 きっと、いつもの海殊ならば気にせず帰路を急いだだろう。だが、彼の足はそこで止まっていた。自然と惹きつけられて、彼女から視線を外せなかったのだ。
 今は七月だ。今日はジメジメしていて、かなり暑い。それにも関わらず、彼女は冬服のブレザーを羽織っていた。明らかにそれが不自然だったのだ。
 少女は目を強く閉じて、どうしてか雨に打たれている。身体がほんの少し震えているところを見ると、冷えてきてしまっているらしい。
 それに気付いた時、海殊の足は自然に彼女の方へと向かっていた。

「あの……大丈夫か? もうすぐ夏って言っても、あんまり雨に当たると風邪引くと思うけど」

 海殊は彼女の上に、傘を翳かざして声を掛けた。
 少女は驚いて目を開くと、はっとして彼を見上げた。青み掛かった瞳はまるで宝石の様に美しく、吸い込まれそうだった。
 彼女はその大きな瞳でまじまじと彼を見つめていた。まるで、話し掛けられた事を驚いている様な表情だ。
 そして、驚いていたかと思えば、少女の瞳から一滴の雫が零れ落ちた。
 それが、後の彼の人生を大きく変える少女との出会いだった──。
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「あ、えっと……」

 海殊みことは困惑した。
 おそらく同じ学校の生徒であろう少女が雨に打たれて佇んでいたので話し掛けたところ、いきなり涙を流されてしまったのだ。
 母親以外との女性と関わりを持っていないとこうした時にどうしていいのかわからない。

「……とりあえずこのままだと風邪引くから、どこか入ろっか?」

 海殊は鞄の中からタオルハンカチを取り出して彼女の肩に掛けてやると、精一杯優しい声色を作ってそう言った。
 結構雨に打たれてしまっているのでタオルハンカチ程度では気休めにもならないが、ないよりはマシだろう。

(何があったんだろうな)

 海殊は少女を見て、改めてそう思う。どういうわけか、彼女はこんな梅雨の真っ盛りにブレザーを着て、辺鄙な公園で雨に打たれていたのだ。家出でもしたのか、はたまたそれ以外の何かなのかはわからないが、ここにいる事が正解とは思えなかった。

(青色のリボン……下級生か)

 彼女の制服の首元は、青色のリボンで結ばれていた。
 海殊の通う海浜法青高校では、学年ごとにネクタイやリボンの色が異なる。一年が青色、二年が緑色、三年が赤色で、進級するごとに買い直す羽目になるので、母親はよく文句を言っていた。部活などに入っていれば、先輩から譲ってもらえるが、帰宅部の海殊には関係のない話である。

「さ、行こう。本当に風邪引くから」

 何となく言葉に迷って、そう促す。これ以上雨に打たれていても、本当に風邪を引いてしまう。
 少女はこくりと頷くと、海殊に言われるがままに立ち上がった。
 その時、彼女の表情が近くなって、海殊は自らの心臓がどきんと跳ね上がったのを感じた。
 艶のある黒髪に加えて、新雪の如く白い肌、そして青み掛かった大きな瞳にぱっちりな二重で、モデル顔負けな華奢な身体……そこにいたのは、紛れもない美少女だったのだ。近くで見る彼女は本当に美しくて、その顔をずっと見ていたいと思わされると同時に、気恥ずかしくて見ていられなかった。
 どうにも心がむずむずして落ち着かなくて、思わず彼女から視線を逸らして頭を掻いた。こんな感覚に陥ったのは、彼の人生に於いて初めてだ。

「あ、そうだ。君、名前は?」

 海殊は彼女の方へと向き直って訊いた。
 名前どころか、まだ声も聴いていなかった。

「名前? えっと、柚ゆず──」

 少女がようやく言葉を発したかと思ったが、彼女は何かにはっとして言葉を留めた。

「じゃなくて、えっと……」
「……違うんかい」

 思わず海殊はツッコミを入れていた。こんなに綺麗な女の子と話すのは初めてなので、何か言葉を発していないと間が持たなかったのだ。
 そのツッコミがウケたのかどうかはわからないが、少女はぷっと吹き出した。そこでようやく海殊も顔を綻ばせた。

「うん、ごめん。間違えちゃった」

 少女は眉を下げて困った様に笑うと、そう言った。

「自分の名前間違うってあるのか?」
「あるのっ」

 彼女は怒った表情を作ってそう返すが、どこか嬉しそうで、そんな自然なやり取りでさえも噛み締めている様だった。

「それで?」
「え?」

 少女が不思議そうに首を傾げたので、海殊はもう一度小さく溜め息を吐いた。

「君の名前。教えてくれないと、何て呼んでいいのかわからない」
「あ、そうだよね。ごめん」

 少女はそう言って顔を綻ばせると、姿勢を正した。

「えっと……水谷琴葉みずたにことはです。宜しくお願いします」

 水谷琴葉と名乗った少女はそのまま丁寧にお辞儀をする。

「俺は滝川海殊たきがわみこと。宜しくな、水谷さん」

 海殊がそう言うと、彼女は小さく「あっ」と声を上げた。

「どうした?」
「えっと……名前で呼んで欲しい、です。あんまり慣れてなくて」
「名前で? それは、いいけど」

 慣れていない、とはどういう事だろうか。
 もしかすると、家庭が複雑なのかもしれない。今の彼女の状況を見ていると、そんな感じだろうと海殊は勝手に推測をして、一人で納得した。

「……琴葉ことはさん、でいいかな?」
「呼び捨てでいいですよ。私、後輩なので」

 琴葉は海殊のネクタイを見て言った。

「じゃあ……琴葉」

 海殊は自らの頬が少し熱くなったのを感じた。
 海殊にとって、女の子の名前を呼び捨てで呼ぶなど初めてだったのだ。
 そのたどたどしい感じが面白かったのだろうか。琴葉はくすくす笑っていた。

「宜しくお願いしますね、海殊くん」
「待った」
「はい?」
「名前で呼ぶ代わりに琴葉も敬語はやめてくれないか。俺、先輩後輩関係とか慣れてなくてさ。敬語使われると、くすぐったくなっちまうんだ」

 何となく恥ずかしかったからか、そんな事を言っていた。
 無論、敬語を使われると恥ずかしいといった事はないのだが、自分だけ名前呼びで恥ずかしい思いをさせられているのが気に入らなかったのだ。

「あ、そうなんだ。じゃあ、改めて……宜しくね、海殊くん」

 琴葉はあまり恥ずかしがった様子もなく、嫣然えんぜんと笑った。

「こ、琴葉は……どうしたんだよ。家出か何かか?」

 海殊はバツの悪い顔をして彼女の名前を呼んだ。どうにも女の子の名前呼びは慣れない。
 琴葉は少し言葉を詰まらせたが、ゆっくりと頷いた。

「うん……そんな感じ。ちょっと困ってたから、助かっちゃった」

 そう言って、困った様に笑った。本当に困っている様に見える。
 どうやら、海殊の予想通り家出少女だったらしい。親と喧嘩して着の身着のままで出てきてしまった、という事だろうか。それでも、冬服のブレザーを着ている意味がわからないけれども。

「行く宛ては? 家は帰り難いかもしれないけど、友達の家とか。もし近いんだったら、送っていくよ」

 このあたりは治安は良い方だが、このご時世だ。何があるかわからないし、こんな可愛い子を夜の町に放置するのは気が引けた。
 尤も、それ以前にこの雨だ。放っておいて風邪でも引かれたら寝付きが悪い。

「えっと……私、友達もいなくて。それで、途方に暮れてて」

 琴葉は少し言葉に迷いながら、そうぽそりと漏らした。
 どうやら友達もいないらしいが、それもそうかと納得する。もし友達がいれば、こんな公園で佇んでもいないだろう。見たところ、何か持ち物を持っている気配もない。スマホや財布も持って来ずに飛び出したのだろうか。

「あー……なるほど。俺も友達少ないから、わかるよ」
「やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
「海殊くん、ちょっとぼっち感漂ってたから」
「ぼっちじゃねえ!」

 琴葉の失礼な言葉を、海殊は激しく否定した。
 失礼な事を言う後輩である。決してぼっちではない。人と深く仲良くなれないだけだ。
 ただ、琴葉も本気でそう思っていたのではなく、面白がって言っただけなのかもしれない。彼女は楽しそうにくすくす笑っていた。

「それなら、家まで送ってこうか?」

 どうしていいかわからないが、とりあえず訊いてみた。行く宛てがないならば、帰って親と仲直りするしかないだろう。
 しかし、琴葉は首をふるふる横に振った。どうやら、帰りたくはないらしい。

「それじゃあ……うち、来るか?」

 自分でもどうしたのだろう、と思った。
 初めて会って、初めて話した女の子を家に誘うなど、常識はずれにも程がある。
 だが、海殊はどうしてか彼女を放っておけなかった。それは彼女が美しいからなのか、その儚い姿にどこか憐憫を感じたからなのか、それともただただ善心からそう申し出ているのかはわからない。下心はない、と信じたい。
 それに、訊いてはみたものの、ダメ元だ。こんな見ず知らずの初対面の男の家になど、来るわけがない。何となく訊いておかないと、後に後悔しそうだったから訊いただけである。
 しかし──

「いいの……?」

 琴葉はおずおずと確認してくる。
 ちょっと思っていた反応と違って、海殊の方が困惑してしまった。てっきり断られるものだとばかり思っていたからだ。

「ま、まあ、困ってるなら仕方ないよ。それに、家には親もいるから、そこらへんは安心して」

 誰に言い訳しているのかわからないが、何だか言い訳がましく説明してしまう。

「うん……ありがとう」

 琴葉は顔を綻ばせて、少しだけ首を傾けた。
 その笑顔があまりに可愛らしくて、海殊は自らの胸の一番柔らかいところに少しだけ痛みを感じた。
 そして、二人は相合傘をしながら、肩を並べて歩き出す。目的地は、彼女の家でもなく、その友人の家でもなく、海殊の家だ。

(……あれ? どうしてこうなった?)

 なんだか全く予想していなかった方向に話が進んでしまい、更に困惑する海殊であった。
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 家に帰っている道中、海殊みことは琴葉ことはと会話をするよりも、この状況をどう親に説明するかに必死に思考を巡らせていた。
 海殊の家は母子家庭だ。母の滝川春子たきがわはるこはプログラマーで家を空ける事が多いが、女手ひとつで海殊を不自由なく育ててくれた。どちらかというと男勝りな性格で基本的にノリもよく、何でもかんでも受け入れてくれるのだが──

(今回ばっかりは、どう出るか……)

 海殊は俯いたまま歩く隣の少女をちらりと見た。
 同じ学校の後輩とは言え、見ず知らずの家出少女である。果たして泊めてやる事などできるのだろうか。如何にテキトーな親とは言え、ひと悶着ある事が予想できた。
 しかも、水谷琴葉みずたにみことと名乗った少女は、七月なのにまだ冬用のブレザーを着ている。夏でも寒さを感じる変わった体質なのかとも思ったが、普通に暑そうで汗をかいていた。
 先程ブレザーを脱がないのかと訊いてみたところ、ワイシャツが濡れて透けてしまうので嫌なのだという。それはそれで、海殊が気まずそうに言葉を詰まらせたのは言うまでもない。

「……? どうかした?」

 視線を感じた琴葉が不思議そうに首を傾げた。

「いや、何でない。肩、濡れてないか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

 彼の傘に入れてやっているので、距離は随分と近い。
 こんなに女の子と距離を近づいた事などもちろん初めてであったし、無駄に緊張してしまう。そして、そんな自分がこれからこの子を家に泊めようとしているのだから、もう意味がわからなかった。

「あっ……ねえ。いきなりなんだけど、変な事訊いてもいい?」

 琴葉が不意に海殊を見上げた。
 その表情はどこか不安げで、訊いてもいいか迷っている様でもあった。

「何を以てして変な事なのかわからないけど……まあ、俺が答えられる事なら」
「その……今日って、何日?」
「今日? 今日は七月一日だけど」

 祐樹ゆうきにも答えたばかりの質問だ。迷うまでもない。
 日付の確認など誰でもするものだ。別に変でも何でもなかった。

「えっと、それは……何年の?」
「は?」

 本当に変な事を訊かれた。
 今日が何曜日であったり、何日であったりは訊かれる事はある。うっかり忘れる事も多いし、特に変な会話ではないだろう。
 しかし、それが何年かとなると、話は違ってくる。彼女の質問はまるで、SF映画でタイムスリップしてきた者が言う台詞だ。

「……二〇二X年の七月だけど?」
「え……!?」

 海殊が迷いながら答えると、琴葉は思いのほか驚いていた。
 立ち止まって愕然としたまま、その青くて綺麗な瞳を揺らしている。

「え? どうした?」

 困惑するのは海殊も同じだ。ただ年数を言って、そこまで驚かれるとも思っていなかったのだ。
 これが年末年始なら前年と勘違いする事もあるだろう。しかし、今はもう七月だ。二〇二X年になって、もう半年以上が経っている。それを今更驚く意味がわからなかった。

「う、ううん……何でもない。そうだよ、ね。二〇二X年だよね……何言ってんだろ、私」

 海殊が怪訝そうにしていると、てへへ、と恥ずかしそうに笑って、琴葉は再び俯いた。表情は見えないが、その肩は沈んでいる様に見える。
 ろくに自分の事を話さず、季節外れな服装で外でひとり佇んでいる少女……そして、今年が何年かと訊いてくる始末だ。それはあまりに不自然だった。

(……まさか、本当にタイムマシンで過去に戻ってきたとかじゃないよな? 特異点を間違えて戻る予定の時間がズレたとか?)

 一瞬、そんな事を考えてしまう。本の読みすぎだと笑われてしまいそうだが、ちょうどこの前読んだ本がそんな内容だったのだ。
 だが、そんな不自然さがあるのに、海殊は彼女の事を気味が悪いとは思えなかった。それよりも何とか彼女を助けたいと思う始末だ。琴葉と名乗った少女も変わっているが、自分も変わり者である事は同じな様だ。

「えっと……ここがうちなんだけど。一応俺の方でもそれっぽい理由考えたから、テキトーに合わせて」

 自宅の前まで辿り着くと、海殊は門扉を開きながら言った。
 さすがに家出少女を拾ったので泊めてやって欲しいというのは無理があると思ったので、他にも理由を考えたのだ。
 本当はもっと打ち合わせたかったのだが、少し話してみて思った事は、彼女はあまり自分の事を話したがらないという事だ。それに、どうやら複雑な家庭っぽいので、どこに地雷があるのかもわからない。海殊も踏み込んでいいのかの判断ができなかったのである。

「うん、ありがとう。頑張って話合わせるね」
「まあ、とりあえず頼むだけ頼んでみるけど……無理でも怨むなよ」

 念の為そう言ってから、玄関ドアを開く。
 ここからが正念場だ。自分自身どうしてこんな事になっているのかさっぱりわからないが、とりあえず何とかなるだろう。何とかならなくても海殊が悪いわけではないし、なるようにしかならない。
 そう思っていたが──

「ほんと、ごめんねえ琴葉ちゃん! お客さん連れてくるなら海殊も先に言いなさいよ、もっと豪勢な夕飯にしたのに!」

 詳しく説明するまでもなく、海殊の母・春子はるこは普通にこの状況を受け入れてしまった。
 今は夜の九時半前といったところだ。結構遅い時間に息子が女を連れて帰ってきたというのに、全く何の障害も生じなかった。
 春子は琴葉に着替えを貸して、濡れた制服を干すと──冬服である事にもノータッチだった──彼女を脱衣所に案内していた。
 今は早速彼女の前に取り皿とスプーンを並べている。一方の琴葉は春子の勢いに押されて、たじたじとした様子で席に座らされていた。
 夕飯のメニューはタコスだったらしくて、丁度三人で食べるには良いメニューだ。テーブルの上にはタコミートと野菜が並べられており、その横にトルティーヤの皮が重ねられている。滝川家では、自分で好きな具材を取ってトルティーヤに乗せて食べるスタイルなのだ。
 昼から何も食べていなかった海殊は、自らの腹がぐうっと鳴ったのを感じた。

「まさか海殊がガールフレンドを連れてくるだなんてねえ。しかも、こんな可愛い子だなんて……あんた、普段女の子に興味ない素振り見せておいて、しっかりしてるじゃない」

 琴葉が着替えている間、春子は小声でそう言った。挙句に「お母さん、息子の成長に泣けてきちゃったわ!」と言いながら、よよよと袖で涙を拭う仕草までしている。
 ガールフレンドなどとは一言も言っていないのだけれど勝手に勘違いされてしまっている様だ。海殊としては頭痛を覚えざるを得ない状況だったが、これはむしろ都合が良かった。

「えっと、それで母さん。今、こいつの親が旅行行ってるみたいでさ、ちょっとの間泊めてやって欲しいんだけど──」
「そんなの、良いに決まってるじゃない! 二泊でも三泊でも、好きなだけ泊まってもらって。二階の空いてる部屋使ってもらっていいから」

 これまた簡単に承諾されてしまった。
 自分から言い出して信じられない海殊である。思わず「えええ……」と困惑の言葉が漏れた程であった。

「あ、琴葉ちゃん。化粧水とか持ってきてる? 持ってきてなかったらあたしの使っていいからね。洗面台に置いてあるから」

 食卓に三人で座ると、早速母が琴葉が話し掛けた。

「え、いいんですか? 持ってきてなくて、どうしようかと思っていたんです」
「ええ、もちろん。若いからって肌ケアを怠るのは禁物よ。こういうのは積み重ねなんだから」
「はい、ありがとうございます!」

 そして、何故か親しくなっている母と謎の家出少女である。母に至っては、もはや海殊よりも琴葉と親しんでいる様にさえ思えた。
 海殊はそんな二人のやり取りを眺めながら、黙々とタコスを食べるしかなかった。自分で切り出しておいて何だが、一番この状況を理解できていないのが彼自身だ。

「あ、そうだ琴葉ちゃん。家事とかできる?」

 食事も後半に差し掛かってきた頃、唐突に春子が琴葉に訊いた。

「家事ですか? 人並みにはできると思いますけど……」
「じゃあ、あたしが不在の時は任せていいかしら? 仕事で夜遅くなる時とか夜勤もたまにあって、どうしても溜めがちになっちゃうのよねえ……この子もあんまり手伝ってくれないし。もちろん、できる範囲で構わないから」

 母はじとっとした視線を息子に送って言った。
 海殊はその視線に気付かないふりをして、トルティーヤを丸めて口の中に放り込んだ。もはや一番会話についていけてない。
 隣の琴葉はそんな海殊を見て微笑むと、「はい、任せて下さい」と嫣然として返事をするのだった。

(なんかよくわかんないけど……上手く運んでるなら、いいのかな)

 思っていた展開と全く異なったが、とりあえずこっそりと安堵の息を吐く。

(それにしても……何で俺、ここまでこの子の為に必死になってるのかな)

 タコスをもぐもぐと美味しそうに食べる琴葉の横顔をちらりと見て、ふとそう思う。
 今日の一連の行動はどれをとっても自分らしくなかった。しかし、それでも海殊には彼女を放っておくという選択などなかった様に思うのだ。そこにあったのは、義務感や使命感。まるで運命に導かれる様にして、琴葉に声を掛けていた。公園で雨に濡れて不安そうにしている彼女を、見過ごす事などできなかったのだ。
 そして、母と楽しそうに話している琴葉を見て、自分の直感は間違いではなかったと思うのだった。
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「……それで? あの子は何?」

 食事を終えた頃合いで風呂が沸いたので、雨に打たれていた琴葉ことはに先に風呂に入ってもらった時である。母の春子はるこが唐突に訊いてきた。

「え?」
「カノジョじゃないんでしょ?」
「……わかってたのか」
「そりゃあね。もうかれこれ十七年以上あんたのお母さんやってますから」

 さすがに最初はびっくりしたけどね、と春子は付け足して笑った。
 海殊みことは素直に驚いた。母は全て嘘だと見抜いた上で、その嘘に付き合っていたのである。できるだけ自然に、そして琴葉が違和感なく過ごせる様に接していたのだ。

「正直言うと、俺もわからないんだ」
「はあ?」
「でも、放っておけなかった」

 息子の言葉に母は怪訝そうに首を傾げていたが、そう答えるしかなかった。それ以外に、海殊の行動の動機などなかったのだから。
 海殊はそれから、今日あった事を話した。
 今日あった事と言っても、大したものではない。図書館帰りに公園で雨に打たれている女の子と出会って、どうしても放っておけなくて声を掛けてしまっただけである。
 海殊と琴葉の関係などそれしかなかったのだ。同じ学校ではある様だが、これまで校舎で会った事もなければ、見掛けた事もない。完全に赤の他人なのである。

「家出してるの?」
「……多分」
「多分って、あんたねぇ……」

 息子の答えに、春子は再度呆れ返って嘆息した。
 ただ、母のその気持ちは海殊が一番よく理解している。彼自身が自分の状況をわかっていないし、自分の行動原理もわかっていないのだ。普段の自分なら絶対にやらない事を立て続けにしてしまっているので、母が理解に苦しむのも仕方ない。
 春子はもう一度大きな溜め息を吐くと、立ち上がった。

「ま、何でもいいけど、無理のない範囲でね」
「え?」

 これまた母の意外な言葉に、海殊は驚いて顔を上げた。この母親は、本当に今のこのよくわからない状況を受け入れてくれるというのだ。

「とりあえず守って欲しい事は、向こうの親御さんに迷惑を掛けない事かな。それと、もし掛けちゃったなら、すぐにあたしにちゃんと報告する事。あたしも一緒に事情を説明して、謝りに行ってあげるから」
「母さん……」

 もともと理解のある親(というよりは放任主義なのだけれど)だとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。
 これはこれで、心配になってしまう。家出少女を匿うというのは、色々面倒を引き起こすのではないかとも思えたからだ。
 それに関して春子は「まあ、学校には行くんなら大丈夫じゃない?」と楽観的だった。どうしても連れ戻したければ親が学校までくるだろうし、それはもはや琴葉の家庭の問題なので、自分はタッチするつもりはないと春子は言う。

「どうしてそこまでしてくれるんだ。明らかに俺の採っている行動は変だし、おかしいだろ」

 海殊がそう言うと、母は「まあね」と呆れた様子で眉を下げた。

「でもさ……あんたの母親を十七年以上してるって言ったけど、こうしてあたしに嘘吐いてまで何かしようとしたのは今回が初めてじゃない? だから、きっと……引けない理由があるのかなって思ったわけよ」

 めちゃくちゃ可愛い子だしね、と付け加えて、春子は悪戯げに笑った。
 言われてみれば、そうなのかもしれない。
 海殊は所謂デキの良い子供で、これまでの人生でわがままなども殆ど言った覚えがなかった。それはうちが片親で、女手ひとつで自分を育ててくれている春子には心から感謝していたからだ。親にはできるだけ迷惑を掛けない様にして生きなければならないと無意識下に思っていたのである。

「もちろん、何もチェックしてないわけじゃないわよ? 話した感じ何か裏があるタイプでもないし、色仕掛けをする様な子でもなさそうだし……この子なら大丈夫かなって」

 どうやら母は、先程の食事中の会話で琴葉の本質に迫る様な質問をいくつか投げかけていたらしい。
 海殊からすればただの日常会話にしか思えなかったのだが、質問をした時の表情や仕草などから色々な情報を読み取り、その判断に至ったそうだ。女とは恐ろしい生き物である。

「それで……母さんはどう思ったの? 琴葉の事」
「んー、普通に良い子なんじゃない? どうして家出なんかするんだろうって思うくらいには優等生ってイメージよ。何かあるんじゃないかって思うけど……でも、あとはあんたと同じかな」
「え? 同じって?」
「なんだか、放っておけなかったのよ。守ってあげたいとかそういう庇護欲とは違うんだけど……力になってあげなくちゃいけないっていう義務感、みたいな感じ?」

 海殊は母のその言葉にも驚いた。どうやら、潜在的に自分と同じイメージを春子も抱いていたのだ。

「だから、あんたがそう感じてるなら、全力であの子の力になってあげなさい。あ、でも無理矢理はダメよ? 合意があるならもちろんいいんだけど」
「……ちょっと待った。後半は何か話が変わった気がするんだけど」
「そうなの? こんなに理解ある親他にいないわよ~? 感謝しなさいね。ま、あとは頑張んなさい」

 ほほほ、と春子はわざとらしく笑って、二階へと上がっていった。琴葉の布団を敷くつもりなのだろう。滝川家は一軒家だが、二階には来客用の空き部屋があるのだ。

「まあ……こんなむちゃくちゃな状況を受け入れてくれる器の大きさには感謝してるよ」

 海殊は大きく溜め息を吐いて、そう独り言ちた。
 とりあえず何とか諸々は乗り越えたらしい事に、まずは安堵する。無論、自分の行動がどこに向かっているかなど、わかるはずがないのだけれど。
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 自分の部屋に、ほぼ初対面の女の子がいる──海殊みことはそんなどうしようもないむず痒さと人生で初めての経験に緊張を覚えながらも、お風呂上がりの琴葉ことはをちらりと見る。
 今、彼女は母のスウェットズボンに海殊のTシャツを着ている。下着を着けているのかどうかは、考えない様にしていた。
 自分や母親と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女の長く綺麗な黒髪からは良い匂いがふわふわ漂っていて、その匂いだけで胸の高鳴りを覚える。

「それで……俺は、どこまで聞いていいんだ?」
「え?」

 海殊の唐突な質問に、本棚の本をじーっと見ていた琴葉が驚いてこちらを見た。

「いや、事情とかさ。母さんはあんな感じで楽観的だけど、実際家出状態なんだろ? 警察とかに捜索願出されでもしたら」
「……それはないよ」

 海殊の質問に対して少女は諦めた様に笑うと、はっきりとそう言った。
 もしかすると、海殊が考える以上に琴葉の家庭環境は複雑なのかもしれない。

「もしね……もし、私の事が邪魔だったり、迷惑なんだったらすぐに言ってね。居なくなるから」
「……居なくなる?」

 海殊は彼女の用いた表現に違和感を抱いた。
 普通、こういった時に用いる言葉は「出て行く」「帰る」などの表現が正しい様に思う。しかし、彼女は「居なくなる」と言った。それはまるで、自分の存在そのものが消えてしまう様な表現だ。

「……別に邪魔でも迷惑でもないけどさ。もし何かあった時に対応できなかったら、大変だなって思っただけだよ」
「そこは、大丈夫だから」

 まるで断言する様に言い、琴葉は本棚へと視線を戻した。
 彼女はこういった表現をする事が多い。まるで未来を知っているかの様な発言だ。本当に未来からきたSF少女なのかと若干疑ってしまう。
 だが、その疑いを晴らす言葉も後に出てくる。それが──

「あっ、この小説新刊出てたんだ。って、えっ!? 完結してる!?」

 琴葉は『想い出と君の狭間で』という恋愛小説の最終巻を手に取ったかと思えば、帯を見て吃驚きっきょうの声を上げた。
 それは海殊が好きな小説の一つで、元芸能人の今カノと現役芸能人の元カノの間で主人公が振り回される恋愛小説だ。一昨年の春、確か海殊が高校に入学する前に一巻が出て、今・年・の・春・に・三巻で完結している。

「これ、読んでいい?」

 琴葉は二巻と三巻を手に取ると、瞳を輝かせて訊いてくる。

「……どうぞ」

 海殊が小さく嘆息して肩を竦めると、彼女は早速二巻のページをめくっていた。
 自分が気に入っている小説を同じく気に入ってくれているのは嬉しい。だが、そこにも違和感があった。もし彼女が未来から来たSF少女なら、この小説が三巻で完結している事も知っているだろうし、そこに驚くはずがないのだ。
 それに、こういった事はこれが初めてではない。先程食事中にテレビを見ていて、半年前に有名芸人コンビが解散していた事にも驚いていたし、ある有名人が故人になっていた事についても困惑していた。その様子はまるで、過去から未来に来て未知の情報に遭遇して驚いている様でもあったのだ。
 未来が確定しているかの様に断言する事もあれば、過去の事象を知って困惑もする。はっきり言って、彼女には不自然な事が多すぎた。

(……考え過ぎか。実際、そんな事あるわけないし)

 海殊の部屋のクッションに座って二巻を読み進めている琴葉を見て、もう一度小さく溜め息を吐く。
 少し頭がこんがらがっているのかもしれない。あまりに自分が普段と異なる行動を取っているものだから、きっと疲れているのだろう。

「海殊くんは、凛りんと玲華れいか、どっちが好き?」

 数ページめくったところで、琴葉が訊いてきた。
 彼女の言う『凛と玲華』とは、『想い出と君の狭間で』に登場するヒロインで、主人公の今カノと元カノだ。性格が似ている様で真逆で、主人公に対する接し方も全く異なる。好みが分かれるところだ。

「あー……どっちだろうな。玲華の執念も嫌いじゃないけど、真面目でひたむきに頑張る凛の方が好きかな」

 海殊は正直に答えた。実際にこの小説では今カノの凛が勝つわけなのだが、それは三巻で結末が出る。三巻での玲華の見せ場は胸にくるものがあって、多くの読者が彼女に惹きつけられるのだけれど、そこに関しては触れない方が良いだろう。

「琴葉は?」
「私も凛派だよ。気が合うね」

 琴葉はそう答えると、嬉しそうにくすくす笑った。
 その時に見せた彼女の笑顔があまりに可愛くて、海殊は今日何度目かの高い胸の高鳴りを感じてしまい、咄嗟に彼女から視線を逸らす。

「で、明日はどうするんだよ」

 そんな自分の感情を隠す為、海殊はぶっきらぼうな物言いで話題を変えた。彼女に内面を悟られるのが嫌だったのだ。

「どうするって?」

 琴葉はきょとんとして首を傾げた。

「学校だよ。行くんだろ?」
「え……!? あ、えっと……うん。行くよ?」

 どこか驚いた様な、困惑しているかの様な反応。

「もしかして、家出な上に不登校?」
「違うから!」

 そんなやり取りをするも、それはどこか暖かくて楽しくて。海殊は自らの胸の中がぽかぽかとしていくのを感じていた。

「じゃあ、えっと……この本借りるね」
「ああ、お好きにどうぞ。朝、寝坊するなよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」

 そんな挨拶をして、琴葉が部屋から出て行くのを見送る。彼女は海殊の二つ隣の客間で寝る事になっているのだ。
 ほぼ初対面の女の子がうちに来て、自分のシャツを着ていて、更にその子から「おやすみ」と言われる。
 その何とも不思議な感覚にむず痒さを覚えながらも、海殊は自分の顔がにやけてしまっている事を感じて、思わず頬を叩いた。
 こうして、海殊と見ず知らずの家出少女との奇妙な同居生活は始まったのだった。
     
 
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