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原稿・シマダヤ・牧実氏(2018/09/21)

◆ブラジルに3年10ヶ月

狭山営業所で8ヶ月を過ごした後、 私はいよいよ ブラジルに渡りました。

ブラジルでの事業は、社長にとっての長年の夢でした。
生涯の夢といっても良いでしょう

創業間もない1930年代、20代だった社長は国の政策として推奨されたブラジルへの渡航を夢見たのです。
しかし、親族の猛反対に遭い 泣く泣く諦めたそうです。
その後、国内でうどんづくりに打ち込み、成功を収めました。

それから40年余り、ブラジルへのあこがれが遠い昔の思い出として消えようとしていたころ、
再び社長の心に火をつける出来事がおこりました。

三男、つまり私の兄の昭雄がブラジルへ渡り、そこで自力で事業を起こしたのです。
全くの偶然でした。
昭雄はひとりで事業を維持することは難しかったようで、当時イタリアにいた次男の清和に助けを求めました。

清和はイタリアで 自動車関係の仕事に就くことを 目指していましたが、
弟に懇願されたことで、奥さんや子どもに反対されつつも、ブラジル行きを決意しました。
こうして兄弟そろってブラジルで事業を始めることになったのです。

当然、父である社長はそのことに大きな関心を持ちました。
そして、はるか昔に抱いたブラジルへのあこがれを、50代半ばになって思い出したのでしょう。

1971年、社長はブラジルへ視察旅行へ出かけました。
陣中見舞のつもりだったようですが、そこで社長は 忘れかけていた自分の夢を実現できそうな手ごたえを得ました。

息子たちを激励するだけのつもりで立ち寄った社長でしたが、
そこで、日本から渡ってブラジルで農業を 営んでいる日系移民の人たちと会う機会があったのです。
日本の企業として、ぜひここブラジルで協力してくれないかと頼まれました。

日系移民の人たちはたいへんな苦労をしながら、
大規模な土地での栽培を実現させたり、栽培が難しいとされる作物の生産を成功させたり、
ブラジルでは一目置かれる存在になっていました。

それでも彼らがなかなか実現できないでいた分野がありました。
作った作物の貯蔵と流通です。
特に当時は、北半球での穀物が不作で、ブラジルをはじめ南半球の農業に世界的大きな期待がかかっていました。
できた穀物を港まで運び、さらに船で世界中に届けるには、短くともひと月、
長ければ数ヶ月の間、海を渡らなければなりません。

穀物を腐らせずに運ぶためには、船積みする前にそれを充分に乾燥させる必要がありました。
乾燥のための施設さえあれば、ブラジルの日系人の農業はもっともっと 発展するでしょう。

穀物を乾燥させる大規模な設備と貯蔵倉庫を、島田屋本店の力で作って欲しい。
そうすればブラジルで作る大量の穀物を世界中に送り届けることができる。
そんな日系移民の願いを聞いているうちに、社長はブラジルで事業を興すというかつての夢を思い出したのです。

ブラジルでそばを作ればいいではないか。
ここブラジルでそばを大量に作り、
それを船で日本に運べば、安くておいしいそばをもっともっと日本中に広げられると考えました。

すでに息子2人はブラジルに滞在しています。
そして、ブラジルの日系人たちは島田屋本店に大きな期待を寄せています。
社長にとっては、天が与えてくれた大きなチャンスにも思えたでしょう。
取り組まないわけがありません。

社長は自らブラジルでの事業にかかわる決意をして、
1973年、島田屋本店の子会社としてサンパウロにマックブロス社を設立しました。
マックブロスとは、 ポルトガル語で「牧の兄弟」という意味です。

ブラジルでのそばの栽培が実現すれば、日本国内でのそば市場をいっきに大きくすることができるでしょう。
健康に良いそばが日本で日常的に消費されるようになれば、日本人の食生活はガラリを変わってしまうかもしれません。
世界的な規模の取引によって、日本の食文化を大きく変える歴史的な事業になるのです。
社長はもちろん、兄たちも、そして私も興奮を抑えることができませんでした。



私がブラジルへ渡ったのが1974年の暮れことでした。
飛行機で24時間かけてサンパウロまで飛びました。

実は私が日本を発つ前、日本の島田屋本店で専務を務めていた兄の順は、 私の就職先を探してくれていました。
サンパウロの東、約400キロのところにあるリオデジャネイロの日系の金融機関で私が働けるように手配してくれていたのです。

私が少しでもブラジルでの暮らしに馴染めるようにと、兄の順は気を配ってくれたのでしょう。
時間をかけて私が現地の事情に通じることができれば、マックブロス社で働き始めた時も会社にとってプラスになるはずです。
日本にいた長男の順は、じっくりとブラジル事業を固めていきたかったようです。
リオデジャネイロは大都会ですから、日本と全く同じといはいかなくとも、不自由することもなく暮らせたはずです。

しかし、現地で毎日仕事に向き合っていた次男の清和と三男の昭雄は、
一刻も早く大事業を形にしたいと目の色を変えて取り組んでいました。
私も全く同じ気持ちでした。少しでも早く2人の兄の役に立ちたいと思っていました。
なにしろ、狭山営業所で8ヶ月間働きながら、ブラジルへ行ける日を今か今かと首を長くして待っていたのです。

私は長男の計らいを無視して、直接、マックブロス社の生産の中枢であるパナマ州のポンタグロッサに向かいました。
サンパウロから西方向、ブラジルの内陸に向かって800キロほどのところにある街です。

長男の顔をつぶした形になり、実際、後日、ひどく怒られました。
申し訳なく思ったのですが、私は、広大なブラジルを舞台にした世界的な事業に少しでも早く関わってみたかったのです。

パナマ州は日系人が最も多く農業を営む地域です。
マックブロス社は、周辺の農家に働きかけてそばを栽培してもらい、それを買い取って乾燥させ、
玄そばとして日本に輸出していました。

日本への輸出は、会社設立前の1972年からすでに始まっており、その年は52トンの実績でしたが、
翌73年になるとその10倍以上の600トンになり、私がブラジルへ渡った74年には1200トンになっていました。
兄たちは「前年に会社を立ち上げたばかりなのに、初年度でこんなに儲かっていいのだろうか」と言っていたほどです。
まさに倍々ゲーム、ものすごい勢いで伸びていたのです。

私が到着したころ、ポンタグロッサのマックブロス社の敷地には、乾燥のための塔が完成し、倉庫が半分ほど出来上がっていました。
これからどんどんそばを仕入れ、日本に送る予定でした。
事実、半分しかできあがっていない倉庫にも、収穫時期になれば、そば実で荷台をいっぱいにした大型トラックが列をなして並び、次々とそばの実をおろしていました。

そばの実は、まず倉庫の入り口付近に作られた乾燥のための塔の中に運ばれます。
塔の中ではひとかかえもある金属製のケースが観覧車のように回っています。
ケースは周りながら下でたまっているそばの実をすくうと上までのぼり、そこでひっくり返って、上からそばの実をパラパラと落とします。
そこへ重油で焚いたボイラーの熱風が横から吹き付け、乾燥させるのです。

24時間稼働で数日かけて乾燥させた玄そばは、横の貯蔵倉庫に運び込みますが、
倉庫の広さはサッカー場がいくつも入るほどです。
天井に備えたコンベアか、ブルドーザーで倉庫の奥まで運びます。

乾燥し終えた玄そばを運び出す時も同様です。
数珠つなぎになったトラックが次々と倉庫の入り口に着くと、荷台いっぱいに乾燥したそばの実--玄そばをブルドーザーで荷台に積み込んでいきます。
そして倉庫のすぐ目の通る国道を南へ向かい、そのままパラオ州の州都であるクリチーバの港へ行き、
そこで船に積み替えて日本へ送るのです。

会社の広い敷地内には、倉庫とともに社員が常駐する建物、そしてサッカー場がありました。
ブラジルではどこへ行っても、子どもたちがサッカーで遊ぶ光景を たくさん目にします。
ここでのサッカーへの熱の入れようは相当なもので、子どもたちはたとえボールがなくとも、丸めた布を縫い合わせてボールらしきものを作ってサッカーを始めてしまうほどでした。
ブラジル人にとってはサッカーはなくてはならないスポーツです。
そんなわけで、マックブロスの倉庫の横にもゴールポストが立てられ、いつでもゲームができるようになっていました。

倉庫は完成すれば全部で2万5千トンの玄そばが保存できるはずでした。
実際にその後、日本への玄そばの輸出量はちょうど2万5千トンにまでなり、倉庫は玄そばでいっぱいになりました。
現実にはそこをピークに事業は暗転してしまうのですが、私が渡った74年はそんな 懸念など全くなく、
2万5千トンでも足りないだろうと、もうひとつの倉庫の建設計画もあったほどです。




どこまでも大きくなるかに見えた事業を前に興奮を隠しきれなかった私でしたが、
ポンタグロッサにいたのはほんの1週間ほどで、すぐに兄からバラコンへ行けと命じられました。

日本へ輸出するための玄そばは、いくらあっても足りません。
そのため、ポンタグロッサから南へさらに1000キロほどのバラコンまで行き、
そこの農家からそばの実を集めろ、というのです。
その地域はイタリアからの移民が数多く暮らし、以前からそばの栽培をしていたところでした。

ポンタグロッサから車で10時間、行ってみて驚きました。
ブラジルだからと勝手に抱いていた大規模農業とはほど遠い農家の姿でした。


確かにポンタグロッサと同様、玄そばを 乾燥させる塔や倉庫がありました。
しかし、その規模はせいぜい10トン程度、ポンタブロッサの倉庫の2500分の1程度でしかありません。
しかも燃料は重油ではなく薪です。
薪を懸命にくべて熱風をつくり、それでそばの実を乾燥させていたのです。

言葉はポルトガル語で、私は全くの異空間に投げ込まれたようなものでした。
そこでたったひとりで、となればたいへんなことですが、
幸いにも、すでにここでマックブロス社のために働いている仲間がいました。
ひとりが日系人のシローさん、そしてもうひとりがドイツ系のラウー・バッハでした。

シローさんは私よりも10歳ほど年上で、
ポルトガル語ができるため、単独で周辺の農家との契約を進めていました。
私とラウー・バッハは、収穫したそばの実を乾燥させるための工場、兼、倉庫の管理でした。

倉庫のすぐ隣の部屋が3人の住居です。そこでの共同生活が始まりました。
日本語をしゃべれる人間が2人いましたが、3人での共通語はポルトガル語と決めました。
私は必死で覚えました。

食事は当番で作りました。
ポンタグロッサでは、週間に1度、日本の食材が届く店がありましたが、ここバラコンではさすがにそのような店はありません。
それどころか通常の食材も、1時間ほどでこぼこの、雨になるとドロドロになる道を走り、
街でただひとつの食料品店で買わなければなりませんでした。
夜はみな2段ベッドに分かれて寝ました。

日中、シローさんは農家を回るために外出します。
私とラウーで倉庫を管理するのですが、なにしろ温風のための燃料は薪ですから、
24時間稼働させ続けるために、絶えず薪をくべ続けなければなりません。

そばの実を塔の上まで運ぶコンベアや、熱風を送るためのファンには電気を使っていましたが、
それもしょっちゅう故障します。
自力で直したり、部品を取り寄せて交換したり、四苦八苦しながらの仕事を続けました。

薪が原料なので温風の微調整はできません。
そばの実の乾燥具合は、当然、外の気温や天候にも左右されます。
どれほど乾燥したのか、水分計を持ってしょっちゅうそばの実を測定しながら作業を続けました。

要するに、装置はいつ故障で止まるかわからず、
また、そばの実がどういう状態になっているのかを正確につかむためには、
つきっきりで監視していなければならない。
すぐ隣が住居だったのは、こういうわけだったのです。



そばを作ってくれる農家を探して契約を結び、実際にそばの実を買い付ける。
それは主にシローさんの役割でしたが、
私とラウーも、倉庫の管理の合間を縫って、2人でやはり周辺の農家や農協を訪問しました。

正直言って最初はめんくらいました。
1軒1軒農家を歩いていくと、見えてきたのは、
ブラジルだからと勝手に抱いていた大規模農業とはほど遠い農家の姿でした。

バラコンは起伏の激しい高原地帯で、そこにあるのは小さな畑ばかりです。
耕しているのはイタリア系の移民たちで、日系人などは見当たりませんでした。
時々、牛を飼っている農家がありましたが、そこにはまさに馬の乗り、腰に拳銃をつけたカウボーイたちがいました。

あんなもの本当に必要なのかとラウーに聞くと、
「いや、俺もいつも身につけているよと」と、ラウーは当たり前のようにリボルバーを見せてくれました。
これがなければとても安心して暮らしていけない。
ラウーはそう言うのです。
私は半信半疑でしたが、その後、自分でもリボルバーを購入しました。
あまりにも簡単に買えたことに驚きました。

農家の暮らしは決して裕福とはいえない状況でした。
家は見るからに掘っ立て小屋に近いつくりで、
バラコンという街の名の由来は、バラックだと知って納得したものです。

各家の玄関の前には、必ず金属の板が地面に刺さっていました。
そこで靴についた泥を拭って家に入るのが習慣でした。

しかし意外なことに、外のみすぼらしい姿とは裏腹に、中が驚くほどきれいな家がたくさんありました。
チリひとつないほどに掃除が行き届き、土足で入るのが忍びなく、思わず靴を脱いだことがあったほどです。
ご主人からそののままであがってよいと促され、その通りにしましたが、
以来、私は農家の家にあがる時は、必ず念入りに靴のドロをぬぐうようになりました。

農家の人たちは本当に熱心に私たちの話に耳を傾けてくれました。
これは、ブラジルで日系人の評判が非常に高かったことが影響していたようです。

国をあげてのブラジルへの移民が正式に始まったのが、1900年代初頭です。
日本政府はすぐにでも財をなせるような夢のような話で移民を募りましたが、
実際に日本からブラジルへ渡った人たちは、最初は契約労働者として低賃金で働くなど非常に苦労したと聞きます。
日本の移民政策は「棄民」であると言われたほどです。

その後、移民たちは自分の農地を得て独立し始めますが、不作や相場の暴落に見舞われ、苦労は続きました。
そんな中でも、成功する人たちが出てきます。
その代表がパラナ州で農業を営む日本人の人たちでした。

ブラジルにはバタテイロという言葉があります。
バタータとはジャガイモのことで、バタテイロとはバタータを作る人、つまりジャガイモを栽培する農家という意味なのですが、もうひとつ、山師という意味もあります。
ブラジルではジャガイモの栽培は、賭博だというのです。

ジャガイモの栽培は手間も経費がかかり、技術も必要です。
たくさんとれれば良いかというと、豊作で相場が下がってしまうようなこともあります。
ブラジルの人にとっては、ジャガイモづくりは成功するか失敗するか、まさにやってみなければわからない賭けのようなものでした。

そしてそれほどたいへんなジャガイモづくりをブラジルで始めたのが、日本から渡った移民の人たちでした。
ジャガイモばかりではありません、大豆もトウモロコシも日本人が作り始めて、ブラジルで定着させた作物です。

日本からブラジルへ渡った移民の人たちは栽培の難しい穀物にあえて挑戦し、成功をつかんでいったのです。

その後も伝統は受け継がれ、私がブラジルにいた当時も、日系人は技術が必要な難しい作物の栽培ができる人たちとして認められていました。
広い土地を使って効率的に、かつ、創意工夫を重ねて農業をする。
ブラジルで一目置かれる存在になっていたのが日系人たちでした。

農業で成功した人たちは、自分の子どもへの教育にお金をかけました。
その結果、ブラジルでは日系人の弁護士や政治家、医者など、要職に就く人たちが続き、
ますます尊敬される存在となっていきました。

私がブラジルへ渡ったのは1974年で、日本からブラジルへの移民が始まった1900年代当初とはもちろん事情はかなり違います。
それでも、次のようなことを記憶しています。

私は飛行機でブラジルへ渡ったのですが、少し前までは船で渡るのが一般的でした。
船で家族とともにブラジルへ渡る移民のための手引書を見たことがあるのですが、
そこでは荷物を段ボールでも木箱でもなく、ドラム缶に詰めていくように指示されていました。

どうしてドラム缶に? ひと月もふた月もかかる船の旅ではそれは丈夫なものがいいに決まっていますが、それにしてもなぜわざわざそんなに重くかさばるものを?
そう思って読み進めていくと、やがて答えが書いてありました。
ドラム缶を現地まで持っていけば、フタを切り取って風呂にすることができるというのです。

今、聞けば思わず笑ってしまいますが、当時はまじめにこんなことが言われていました。
いかに何もないところで生活を切り開いていかなければならないのか。
ブラジルではそこまで過酷な生活が待ち受けていたのです。

それを克服し、ブラジルで尊敬される存在にまでなっていた日系人のおかげで、
いかにも東洋人という顔をした私を受け入れてくれる人は多かったのです。
まだポルトガル語はろくにできず、現実の交渉はラウーに任せっきりの私でしたが、
いっしょにいるだけで、日本人ということで信用された面は大きかったのではないかと思います。



外国の人を相手に交渉するなど初めてのこともあり、
緊張したり興奮したりで、
バラコンでの時間はあっという間に過ぎていきました。

仕事の面ばかりでなく、普段の生活でも驚くような体験ばかりでした。
向こうではどこへ行くにも自動車がなくてはならず必需品でしたが、
道路はというと整備されていたところはむしろ少なく、特にバラコンでは舗装道路などめったになく、たいていはむき出しの土の上を走ることになりました。

晴れた日は、デコボコ道の激しい揺れと舞い上がる土ぼこりさえ気にしなければ何とかなるのですが(それもまたたいへんなことはたいへんだったのですが)、悲惨なのは雨が降った日でした。
独特の赤土が雨でドロドロになり、まるでグリスのように道を覆ってしまいます。
スピードをあげて自動車を走らせようものなら、後輪が左右に大きくスリップして方向を定めることが難しくなります。
かといってゆっくり走れば、ぬかるんで動けなくなってしまいます。

現実に雨に逢って、動けなくなったことがありました。
農家を回るために畑の真ん中の農道を走っていた時、
あっという間に雨雲が迫ったかと思うと大粒の雨が降り出し、あたりはたちまちぬかるみになってしまったのです。
どうしても前に進むことができず、なんとか引き返して近くの集落で宿を探して泊まりました。

宿が見つかったから良かったようなものですが、夜、車の中で過ごさざるをえなければ、
命の危険があったかもしれません。
実際に夜に強盗に襲われたという事件が頻繁に起きていました。

日本では考えられない危険があちこちにあったのですが、
一方、ブラジルならではの楽しいこともありました。

隣町でダンスパーティがあると聞いて、ラウーと出かけようとすると、
周辺の村の女の子たちもいっしょに行きたいというのです。
私も私もと話を聞きつけた女の子たちが押しかけてきて、結局、フォルクスワーゲンのビートルに、
なんと8人が乗り込み出かけました。

イタリア系の女の子たちはそれは美人ぞろいで、
そんな娘たちとぎゅうぎゅう詰めになってデコボコ道を揺られるのも、ここならではの体験でした。

ダンスパーティでも日本人は珍しがられました。
若い男性が寄って来るので、最初は何だろうと怪訝な目で見ていましたが、「うちの妹と踊ってくれ」と言われ、ほっとして踊りました。

こうして仕事でも私生活でも興奮続きの連続で、ある意味、とても充実した生活を送っていたのですが、
会社のほうはというと、それまでの天井知らずで伸びていた事業がどうやら曲がり角を迎えていました。
バラコンへ来て3か月、私はポンタブロッサに呼び戻されたました。
倉庫の隣に新しく製粉工場を立ち上げろというのが命令でした。



そばの実を乾燥させた玄そばの日本への輸出量はその後も伸び続けました。
私がブラジルへやって来た1974年はその量が1200トンになったところまですでにお話ししましたが、
その後も翌75年には6000トンと5倍になり、さらに最終的には2万5千トンにまでなるのですが、
だからといって利益を順調に確保できたのかというとそうではありませんでした。

ブラジルのクリチーバ港から、マックブロス社が玄そばを船で出荷した。
そうニュースが伝わると、日本国内の玄そばの相場がどんどん下がっていくのです。

当時、船でブラジルから日本まではひと月半ほどかかりました。
その間に相場はどんどん下がり、船が日本に着くころには底値になっていました。
せっかく地球の反対側から運んだにもかかわらず安く買い叩かれるありさまでした。

マックブロス社は、ブラジルの農家とは相場によらず一定の価格で引き取る契約栽培を行っていました。
大量に栽培することで、日本国内での栽培に比べて安く作れたのですが、
日本の輸出した段階でさらに安く買いたたかれてしまっては、利益を出すどころではなくなってしまいます。

私は1978年に帰国するのですが、その後もそのような状態は続き、
利益にならないために引き取り手が現れず、せっかく日本まで運んだ玄そばを港で腐らせてしまうこともあったと聞きます。

当時の日本全体のそばの消費量は、玄そばに換算すれば10万トンほどでした。
マックブロス社は最も多い時で2万5千トンの玄そばを日本へ輸出しました。
国内消費量の4分の1にあたる膨大な量を送り付けたわけですから、相場が下落するのも無理もありません。

しかし、日本国内の業界が、ブラジルからの安い原料を本当に活用する気があれば、
国内のそば市場はより大きくなったはずです。
しかし、現在でも日本でのそばの消費量は当時と変わっていません。
国内の市場規模を維持しようという力がどこからか働いたのでしょうか。
だとしたら、我々そばを作るメーカーにとってはもちろん、そばの生産者にとっても、
また消費者にとっても不幸としか言いようがありません。

ブラジルで原料をどんどん作り、日本で安くておいしいそばをどんどん食べてもらう。
日本人の食生活をも変えようという壮大な計画は、こうしてわずか数年で大きな壁にぶちあたりました。



最終的には、ブラジルで玄そばを作れば作るほど窮地に陥てしまう事態になってしまうのですが、
私が滞在中はまだその傾向が現れ始めたばかりのころで、
兄たちは何とかしなくてはとあれこれ対策を練っている段階でした。

対策のひとつが、玄そばを日本に持っていくのではなく、ブラジルで製粉してそば粉に加工し、ブラジル国内で消費しようというものでした。
ブラジルでパンは一般に食べられていたため、小麦に変わる原料として使ってもらえるのではないかと考えたのです。

そのために必要だったのが製粉工場でした。
ポンタブロッサの倉庫の横に、4階建ての製粉工場を作ろうという計画が持ち上がりました。
それを進めるために、私が急遽、バラコンから呼び戻されることになったのです。

製粉工場は、隣の倉庫同様、本格的なものでした。
日本の製粉工場の中でも、特に大規模に操業している工場が使っている機械を取り寄せました。

また日本からは製粉会社の社員がひとり、
また、機械メーカーの人がひとり、ポンタグロッサまで来てくれました。
ブラジルで建設業を営んでいる日系人が工場の建設にあたりました。

建物を作りながら、大型の機械を設置し、ラインを作っていきます。

4階が 石抜きの工程です。
倉庫に運び込まれたそばの実には、収穫時にコンバインによって巻き込まれた石や砂などの異物が混じっており、乾燥を終えた段階でもそれは同じでです。
そばの実はもともと黒っぽいため、石が混じっていてもなかなか見分けはつきません。
玄そばと石類の比重の違いを利用して取り除く工程が石抜きです。

次に皮むきです。
そばの実は3枚の硬い皮で包まれており、きれいに取り除けば白い実だけを取り出すことができます。

精米に用いる機械と似たような仕組みの機械で皮をはぎ取るのですが、
実の部分を多く残そうとすれば、皮の一部がふすまとして残ってしまい、
皮の部分を多く取り除けば、実が小さくなってしまいます。

皮はそば殻としてまくらの材料にもなりました。
3枚の皮が一体となったまま残せれば、枕としてほどよい空洞と弾力が生まれます。
実も皮もどちらもきれいな状態で分離させて残す。
それが皮むきの工程の大事なポイントでした。

その後、白い実のほうは細かく砕いて製粉しますが、
小麦粉の場合とは違って、そばの場合は熱が加わると風味を損なってしまいます。
細かく砕きすりつぶす仕組みは小麦粉と同じですが、熱を帯びないように慎重に行う必要がありました。

建物を建てつつ、壁ができあがらないうちに、大型の機械を搬入して所定の位置に収めていきます。
手順を間違えれば、機械を中に入れることができなくなります。
日本の技術者たちと話し合いながら慎重に手順を考え、かつ、迅速に進めた結果、
無事、2ヶ月後には製粉工場を完成させることができました。

しかし、仕事はそれで終わりませんでした。
工場を建設中に、兄が商社を契約したというのです。
工場で作るそば粉はブラジル国内で売る計画でしたが、
もうひとつそこから出てくるそば殻のほうを日本に輸出するというのです。

工場も完成したし、ひと月後までこれだけ頼むと気軽に言われたのですが、
機械の能力などを改めて計算し直してみると、24時間ぶっ通しで稼働させてなんとか間に合う見込みです。
あわてて人員を私のほかにもうひとりオペレーターとして働けるブラジル人を探して、
2人で昼夜交代で工場を操業させました。

バラコンでの生活はわずか3ヶ月間でしたが、そこではなんとか日常会話を覚えられたことが、
ここで役に立ちました。
覚えたたてのポルトガル語で、もうひとりのブラジル人と相談しつつ、工場の操業に必要な人員を現地で集めて何とか操業にこぎ着け、ひと月間で約束を量を作ることができました。

できあがったそば殻をトラックに積み込むとき、
ドライバーのブラジル人が不満そうに怒鳴っていたのを覚えています。
かさばかり多くて金にならない。そんな趣旨でした。

確かにそば殻は、皮が3枚一体となった状態を残して中の空洞を保つことができれば、
軽くて風通しの良い枕の材料にすることができます。
反面、そんな原料はかさばかりが大きく、運ぶ側からすれば極端に効率が悪くなるわけです。

そんなものをなんでわざわざ運ぶ必要があるのか。
ブラジル人にとっては、そば殻の価値は理解できなかったのかもしれません。
雨に濡れないよう厳命も受けたことで(商品価値はなくなってしまいます)、
彼の当惑と不満はいっそうふくらんだようですが、クリチーバの港までの約200キロ、なんとか天気は保ち、無事に船に積み込むことができました。



もっとも製粉工場の本当の目的はそば粉の製造です。
当然、そちらの仕事も入ってきたのですが、販売の方針がしょっちゅう変わり、
製造もそれに振り回されることになりました。

初め兄たちがそば粉を販売する対象としたのが、ブラジルのパン屋でした。
パンの材料である小麦粉に混ぜて使ってもらおうとしたのです。

しかし、そば粉は皮の破片--ふすまが混じっているために黒く、焼いたパンも黒くなってしまいました。
今では健康志向もあって受けそうなそば粉入りのパンですが、
当時は、白いのが当たり前のパンが黒くなることに、抵抗感を持つパン屋は少なくありませんでした。
なにより使い慣れていない材料を使うことが敬遠され、結局、パン屋への販売は諦めなければなりませんでした。

そんな思惑にも押されたこともあり、次に兄たちが考えたのが、消費者へ直接、販売することでした。
輸入に頼っている小麦粉に混ぜて、日常的に料理に使ってもらおうとしたのです。
ただし、そのままのそば粉では黒っぽく見えるために敬遠されがちです。
そこで卵を乾燥させた粉をミックスして、家庭用の小袋に詰めて売り出すことにしました。
少しでも栄養価の高い素材であるということを強調したかったのです。

それまで大袋に詰めて出荷していた製粉工場では、急遽、大袋から小袋に詰め替える工程を加えて対処しました。
やはり工場周辺から20人ほど人を募り、集まった20人ほどの女性たちで、
工場の2階で小袋に詰め替えていきました。

家庭で小麦粉にこのそば粉を1割ほど混ぜれば、パンも焼けるし、ケーキも作れます。
テレビコマーシャルを作って放映し、地元のセールスマンも雇って普及を図りました。
しかし、売上は思ったようには伸びていきませんでした。

それでも兄たちはそば粉には大きな価値があると信じていました。
小麦にそば粉を混ぜて使おうというアイディアは、当時のブラジル政府に認められたほどです。
というのは、ブラジル国内では小麦粉は獲れず、ほぼ全量を輸入に頼っていたからです。

ブラジルの主食、パンの原料の小麦粉が100%輸入であることは、食糧安全保障上、好ましいものではありません。
現実に外貨がどんどん外へ出て行ってしまう事態に、政府は何とか対策を打ちたいと考えていました。
1割でも国内産の穀物で代用できれば、大きな成果です。

私ももちろんそのころは、そば粉は必ず求められると信じていました。
今は壁にぶつかっているが、いつかはそれを乗り越えられるだろう。
そう信じて、当時はブラジルに定住する覚悟も持っていました。

1977年に結婚してブラジルのポンタグロッサ郊外に新居を構えたのも、そんな決意の表れです。
自分たちが住むための建売の家とともに、周辺の8軒分の敷地も購入したのは、
いずれ親族や経営陣がここで生活できるようにと考えたからです。
倉庫と工場までは、車で30分ほどです。

白い壁のの我が家は快適そのものでした。
平屋でしたが、日本では考えられないような広い部屋を作ることができ、
また、庭も家の前後に大きく取ることができました。
少し車を走らせれば、ブラジルを縦に走る雄大な山脈を眺めることもできました。

ただ、当然、日本では考えられないような経験も数多くすることになりました。
ある日、仕事から帰ると、妻の顔がパンパンに腫れていました。
どうしたのかを聞くと、庭いじりをしている時にアリに刺されたというのです。

慌てて病院へつれていき、医者に注射をしてもらってしばらく休んだところ無事にもとにもどりました。
最近、日本でもヒアリの被害が報告されましたが、
似たような害虫がすぐ身近にいたようです。

ある晩、風呂の用意のために家の外に出た妻が悲鳴をあげて戻ってきたこともありました。
家の外にボイラーがあり、そこに火をつけて風呂の水を温める仕組みだったのですが、
裏のボイラー付近に不審な人物がしゃがみ込んでいるというのです。

私は「いよいよこの出番が来たか」と拳銃を取り出すと、家の裏に向かいました。
確かに不振な人影がありました。
大声を出して空へ一発撃ち込むと、人影はあわてて消え去りました。

バラコン同様、ポンタグロッサでも突然の雨に見舞われ、あわてたことがあります。
契約栽培しているそばの生育具合を見ようと、妻といっしょに周辺の農家へ出かけました。
どの畑でもそばは順調に育っており、ほっとして帰る途中、
車を停めて、ピクニック気分で用意した弁当を食べながらブラジルの雄大な景色を楽しんでいました。

遠くに真っ黒な雨雲が見えたかと思うと、みるみる近づいていることに気がつきました。
これはまずい。
弁当を食べ終えないうちに、妻をせき立てて車に乗り込み、あわてて家に急ぎました。

事情の飲み込めない妻はあっけに取られていましたが、
私の必死の形相でよからぬことが迫っていることは理解できたようです。
数分としないうちに雨が降り出し、道がぬかり出しました。

ここでスピードを緩めれば、土砂降りに追いつかれて動けなくなってしまうでしょう。
自動車が大きくスリップするのにも構わず、私は猛スピードで走り続けました。
そんな私を妻は心配しましたが、停まれば動けなくなり、より危険な状況に置かれることになります。
雨足が激しくなる中、まるでラリーのように自動車をすっ飛ばして、なんとか無事に家にたどり着くことができました。

危険というわけではなかったのですが、妻がひとりで家にいるときに日本の常識が通じない経験をしました。
昼間、妻は家の門の外に女の子が見えたため声をかけたというのです。
10歳にも満たず、迷子になったのか、困っているのか。
といっても片言のポルトガル語では通じず、結局はそのままにするしかなかったのですが、
家に戻る際、妻はたまたまポケットの中にあったアメを女の子にあげました。

女の子は喜んでどこかへ 行ったため、妻は良かったと思って引き上げたのですが、
その夜、その話を聞いた私は何かいやな予感に取り憑かれました。
そして翌日、それは当たってしまいました。

翌日の昼、やはり妻がひとりの時、なにやら外が騒がしいので出てみると、大勢の子どもたちが家の前に集まっていたというのです。
昨日の女の子の姿も見えたため話しかけたところ、どうやら全員にアメをくれないかと言っているようです。
そんなにはないと片言で伝えると、女の子は表情をガラリを変えて怒り出しました。
いくら説明しても納得せず、妻は家に戻るしかありませんでした。

日本ではとてもできない経験に冷や汗をかいたり、驚いたりしつつも、
それでも私と妻はブラジルでの生活を楽しんでいました。

母も同様でした。
母はすっかりブラジルが気に入ったようで、
サンパウロまで飛行機で飛んだ後は、夜行バスにのって8時間かけてポンタグロッサにまで来て、
私の家や次男の★の家でたびたび時間を過ごしていました。

しかし、一番気に入ったのは、サンパウロに住んでいた三男の昭雄の家だったようです。

昭雄はブラジル事業を最初に始めた当人でしたが、
妻が日系ブラジル人の二世で親戚がサンパウロ周辺にいたため、
本人もその郊外に家を建てて暮らしていました。

倉庫や製粉工場のあるポンタグロッサまでは、サンパウから車で8時間の距離にあり、
半ばポンタグロッサで単身赴任のような生活を送っていましたが、
週末になるとサンパウロ郊外の自宅へもどり、くつろいでいたようです。

もとは農場主の家だったとのことで、中にビリヤード台があるような大きな作りでしたが、
庭もまた大きく、バナナの樹があったのを覚えています。
母はその一角で蘭を育てることに夢中でした。

日本では仕事ばかりしていた母からは想像できませんでしたが、
仕事に追われていた人生だったからこそ、ブラジルではそれを忘れて趣味に没頭したかったのでしょう。
本当に楽しそうに蘭を育て、訪ねるたびにその話で持ちきりで、
母はすでにブラジルに移住していたつもりだったのかもしれません。

一方、あれほどブラジルへの移住を夢見た父は、
確かに事業には夢中でなんとか好転させたいと、あの手この手を尽くしていましたが、
ブラジルへ移住するつもりはなかったようです。

日本を本拠にしつつ、月に1度は飛行機で24時間かけてブラジルへやって来ました。
もちろんポンタグロッサまで足を運ぶのですが、
飛行機の24時間だけでもたいへんなのに、さらに8時間自動車に揺られ、
移動するだけで体力を使い果たしているようでした。
私の家に来ても、 横になって寝ていることが多かったようです。

◆続くマイナスの要因、こうしてブラジル事業は失敗に

このように家族それぞれがブラジルでの生活や事業に向き合っていたのですが、
肝心の事業のほうは暗礁に乗り上げたままでした。

ブラジル国内での消費をねらったそば粉は、パン屋でも、また一般家庭でも思ったように売れませでした。
また、ほかの面でもほころびが見えてきました。
そばの実を確保するための基本である契約栽培がうまくいかなくなってきたのです。

最初に引き取る価格を決めて、計画的に栽培してもらうのが契約栽培です。
ポンタグロッサやバラコン周辺の農家に声をかけ、仕組みを説明して契約するのですが、
思ったようにそばの実が入ってこない事態がしばしば持ち上がりました。

契約時、農家にとっては一定の価格でそばの実を買い取る契約栽培は魅力的なはずですが、
収穫時期、市場のそばの相場が変わって高騰しようものなら、そちらに売ってしまうのです。
市場価格が下がれば、当然、契約を守ってマックブロスにそばの実を収めます。
マックブロスの引き取り価格は市場価格よりも高く、農家にとっては得になるからです。

ある農家と契約を結んだ時は、ある時、畑を耕すトラクターの燃料代が出ないから前借りしたいとやって来ました。
収穫時に相殺すれば良いのでとお金を用意すると、その後もたびたび何かあるたびにやってきては前借りをしてきました。

しかし、収穫時になるといっこうにそばの実を入れる様子はありません。
栽培は順調に進み、畑を見ても充分な量が獲れたはずです。
にも関わらず、いつまで経っても納品する様子がないため、問い詰めると、
相場が高い市場に売ってしまったというのです。

マックブロスにとっては、
相場が高い時にそばの実が確保できず、それを補うためには市場から高いそばの実を購入しなければなりません。
また、相場が低い時は、農家は契約通りにマックブロスにそばの実を収めます。
相場よりも高い価格で引き取ることになります。

結果的に、相場が高くても低くても、マックブロスは常に最高値でそばの実を購入することになります。

市場価格に左右されずに、安定した量のそばの実を確保するための契約栽培です。
長期的に続ければ、農家にとっても安定した収入をもたらすはずですが、
目先の損得で動く農家があまりにも多く、そのたびにマックブロスが振り回されることになりました。

ブラジル事業を始めようという大きな動機になったのが、
日系人からブラジルで作った穀物の乾燥を貯蔵ができる施設を作って欲しいという要望があったからです。
しかしフタをあけてみると、日系人は技術が必要で付加価値の高い作物の栽培をする傾向があり、
現実にそばを栽培するのは日系人以外の農家がほとんどでした。

そもそも契約を簡単に破ること自体、信じられないことなのですが、
そんな農家があまりにも多かったのです。

言葉の違いなのか文化の差なのか、
契約という概念が非常にゆるく、原料確保の基本となる仕組みが根底から成り立たなくなってしまったのです。

販売に苦労し、原料も見込みよりもずっと高くつくことになってしまい、
ブラジル事業は身動きがとれない状況に陥りました。

そんな困難な状況の中でも、上の兄たち、そして何より父はブラジルでの事業を諦めることはありませんでした。

農家があてにならないとわかると、直営で農場を始めました。
しかし、そのためにトラクターやコンバインなど大型の農業機械が必要になり、そのためにまた資金をつぎ込まなければならなくなりました。

社長はしばしば日本のシマダヤから資金を持ち出してはブラジル事業にあてました。
創業者にとっては、会社は自分のものという感覚があったのでしょう。
しかし、それに異を唱えたのが長男の順でした。
当時、専務だった順は「会社は公器」として、社長の方針に反対しました。
会社はもはや創業者の私物ではなく、社会的な存在であるというのです。
ブラジルからの撤退を考えていたのでしょう。

社長と専務のブラジル事業をめぐる考え方の違いは、順が社長に就任した1977年以降も続きましたが、新社長となった順は、会社を守るためにもブラジル事業へお金をつぎ込むことを断固、阻止しました。

諦め切れない父は、自分の持っていた自社株を放出し、親族にもよびかけて株を手放して現金に変え、最後には自ら会社を辞めてその退職金をブラジル事業にあてました。
私財を投げ打ってかけたブラジル事業ですが、その後も好転することはありませんでした。

もはやブラジル政府の後押しも役には立ちませんでした。
それどころか政権が交代すると、まるで前政権の施策を否定するかのように、
事業を妨害するような動きも出てきました。

1982年、島田屋本店はついにブラジル事業から撤退しました。


(終了)















     
 
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