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南向きの部屋は、昼にはよく日が差すのだろう。夕刻になって起き出すと、一番暖かかった。
カーペットの温もりを踏みしめながら、愈史郎はいつもこの部屋から掃除を始める。
身支度に使った水をバケツに移し、雑巾とハタキを手に部屋へ入る。日は西へ深く沈み、空は藍色に染まっていた。もう少しで、完全な夜が来る。愈史郎はそれを、窓から離れた位置で確認した。
入り口に近いところから、羽根ハタキをかけていく。本棚の隙間や、置物の間、硝子戸のサッシ。細かいところに溜まった埃を、やわらかい羽根でなぞり床に落とす。置物や本を倒さないように、傷つけないように。窓際へ向かって、壁沿いに。やさしく、やさしく。
そうしているうちに、部屋がすっかり暗くなった。日が落ちきったらしい。愈史郎はハタキを振る手をいったん止めて、照明をつけに行った。簡素なシャンデリアに光が灯る。
日中は最奥の部屋に遮光カーテンを引き、珠世と共に過ごしていた。寝室として別室を与えられてはいたが、そもそも鬼は睡眠を必要としない。その代わり、日が出ている間は屋内でも行動が限られた。無防備にぐうすか寝る鬼など、あの下っぱ鬼殺隊員の妹くらいなものだ。
竈門炭治郎とその妹のことを思い出したのは、茶々丸が部屋の窓ガラスを引っかいたからだった。開けてやると、窓枠をひょいと跨ぎ越えて入って来る。愈史郎の脇をするりと抜けて、廊下へ駆けて行った。珠代へ手紙を届けに来たのだろう。茶々丸を介して自分たちに手紙を送ってくる者など、アイツしかいない。
少しして、珠代の声がした。茶々丸に「ありがとう」と礼を述べている。それから、「なにかあったかしら」と戸棚を探る音。愈史郎は、台所の戸棚の一番上に煮干があるのを知っていたし、屋根裏で鼠たちが駆けるのを察していたが。珠代の寵愛が猫ごときに向くのがおもしろくなかったため、特になにも言わなかった。
羽根ハタキを和ハタキに持ち替えて、窓枠をぬぐうように動かす。和ハタキは絹でできているため、埃を落とすだけではなく、木目を擦ることで艶出しになる。こういった家政は、鬼になってから珠世が教えてくれた。
ハタキを振るう珠世の、なめらかに白粉がのる頬が、紅を差した小さな唇が、切なげに伏せられた睫毛が、埃を見やる湿った色の瞳が。すべてがこの世のなによりも美しく、愈史郎の心を打った。思い出しただけで、顔が熱くなる。火照った頬を、冷たい風が撫ぜた。
開けたままの窓から、風に乗って音楽が聴こえてくる。オルガンの音だ。どこかの家で、幼い子供が繰り返し練習しているのかもしれない。いつも同じところで隣の鍵盤を押し間違えて、曲の流れを滞らせていた。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
これはなんの曲だったか。愈史郎は耳を傾けながら、ハタキを振るう。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
下っぱのアイツは、少しは昇進できたんだろうか。最近やたらと手紙を寄こしてくるが、肝心の鬼の血液の方はさっぱりだ。まったく、なにをしているのか。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
音と一緒に吹きこんでくる夜風が、愈史郎の髪を遊ぶ。乾燥してなんの匂いもしない、冷たい風だった。冬がそこまで来ていることを、今さら知った。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
鬼になってから、季節の機微にとんと疎くなった。寒くても暑くても、体調に影響がないせいだろう。人間のアイツはそうではないはずだ。間抜けに鼻水など垂らしていないだろうか。

「タラッタラッタ、タラッタ……」

つい口ずさんでしまっていたことに気づき、ハッとした。
背後に珠世がいないことを確認する。見られてはいない。珠世のちょっぴり恥ずかしいところを目撃するのは愈史郎にとってこの上ない喜びであるが、逆はそうでもなかった。
珠世のことを思い返していたはずなのに、いつのまにか炭治郎のことを考えていた。邪魔するんじゃない、とハタキを振って頭の中から炭治郎を追い出す。と、そのとき。

「愈史郎、ちょっと来てちょうだい」
「はいッ、ただ今!」

珠世が呼ぶ声に、愈史郎はハタキを放り出して部屋を飛び出した。珠世が書斎にいることは知っていた。音を立てずに廊下を走る。

「失礼します!」

部屋の前で背筋を伸ばし、ドアノブに手をかけた。引こうとすると、先に中から押し開けられる。珠世が遠慮がちに顔を出した。

「ああ、愈史郎」
「も、申し訳ありません。お待たせしましたか」
「違うのよ。早く渡したくて」

早く早く、と肩を押されて、書斎へ入る。
肩に触れた珠世の指先が熱く、愈史郎はぎょっとした。布ごしであろうと、珠世の変化に気づかないわけがない。
心なしか、珠世の頬が紅潮しているような。耳を打つ珠世の鼓動は、いつもより早い。
掃除などしている場合ではなかった。早く珠世を奥の部屋で休ませなければ。こうしてはいられない。
愈史郎は、肩を押す珠世の手を取り、振り返った。少しだけ目を見開いて、珠世が愈史郎を見つめ返す。
でも、つい先ほどまで、なんともなかった。離れていたって、愈史郎はいつでも、珠世の鼓動に、呼吸に、着物が滑る音に、耳をそば立てている。本当に、部屋を出るまでなにもなかったのだ。頭の隅を、そんな慢心がチラリとよぎる。
でも現に、握った珠世の手は熱く、瞳は熱に潤み、胸を高鳴らせている。唇はうずうずとわななき、堪えきれない笑みを漏らしていた。笑みを。

「珠世様……?」
「どうぞ。あなた宛よ」
「こ、これは」
「炭治郎さんからお手紙です」
「珠世様宛では?」
「あなた宛のも同封されていたのよ」

珠世の手には、折りたたんだ文があった。南天がひと枝添えられている。
部屋の角では、茶々丸が皿に盛られた煮干をかじっていた。無事褒美をもらえたらしい。
珠世の手を握りしめていることに気づき、慌てて離した。無実を証明するように、顔の高さまで手を上げる。手紙は珠世が持ったままだった。
愈史郎は、受け取るのをためらった。珠代の言葉を疑うわけではないが、文だけならばまだしも、南天の枝は自分宛ではないだろう。
この時期の南天は、花ではなく実をつける。小さな実が、細い枝の先にたわわに実っていた。細く長いくすんだ緑の枝葉とは対照的に、実は鮮やかな赤色をしている。よく庭木で見かける、どこにでもある植物だ。
手紙に季節の植物を添えるなど、粋なことをする。そんな、恋文みたいな。愈史郎には、男から恋文をもらう趣味はなかった。

「いりません」
「なにを言っているの。大切なことが書かれているから、読んでちゃんとお返事しなさい」
「大切なことが書いてあるなら、なおさら珠世様宛なのでは」
「『愈史郎様へ』と名前が書いてありました」
「…………」

言い逃れはできそうにない。
愈史郎は渋々文を受け取り、さっと懐へつっこんだ。南天は珠世の手に残ったまま。

「花瓶を持ってきます。活けてそこの棚にでも飾りましょう」
「それなら、私がやりますよ。あなたの寝所に飾っておきます」
「…………」

珠世の意思は固いらしかった。
一輪挿しがひとつ増えたところで、寝室が狭くなるわけでもない。愈史郎は諦めて両手を下げた。それなら自分でやります、と南天の枝を引き取った。
短いが、まっすぐな枝だった。切り口は滑らかで、木から断った後にわざわざ削ったのが伺えた。充分に乾いているようだし、そのまま寝台横の棚に置いてもよさそうだった。そうしよう。
文と一緒に懐につっこむわけにもいかず、手の中で枝を持て余す。

「禰豆子さんが太陽を克服したそうです」
「へえ、あの醜女が…………え!?」

なんとなく、まだ退室したくないな、と考えていると。珠世がそう告げた。書斎机の椅子にかけ、机上の文を広げる。炭治郎から珠世宛の文らしい。横には血液の入った真空管があった。
愈史郎は枝を取り落としそうになる。

「まあ、醜女だなんて。美人だと言っていたでしょう」
「あれは社交辞令で…………ええ? 本当に太陽を克服したんですか?」
「そのようです。禰豆子さん、今では昼間に外に出ているようですよ」
「昼間に……」
「新しい血を送ってきてくれました。私は今からこの血を調べます」

珠世の声は静かだった。竈門禰豆子が太陽を克服するのを、珠世は前から予言していた。愈史郎もその予言を知らされてはいたが。まさか、本当に太陽を克服するとは。太陽を厭わない鬼が現れるとは。
だからいつもと様子が違っていたのか。理解が追いつかないながらも、納得はできた。
珠世が何百年と研究を続けても成し遂げられなかったことが。鬼舞辻無惨が何千年と追い求めて得られなかったものが。あの文の中には、綴られている。あんなただの紙きれに、そんな大それたことが。

「愈史郎」
「あ……ああ! も、申し訳ありません」

呆けそうになった愈史郎を、珠世が呼んだ。自然と背筋が伸びる。すぐ研究を始めるのだから、自分がいては邪魔だろう。茶々丸を回収して退室しなければ。

「失礼します!」
「愈史郎」

茶々丸を抱え上げた愈史郎を、珠世が再び呼ぶ。抽斗を開ける音がした。

「たまには炭治郎さんにお返事を書いたらどうですか?」
「え」
「いつもお手紙をもらっているのに、一度もお返事したことないでしょう」
「それは、アイツが勝手に送ってくるからで」
「血を調べるのは時間がかかりますから、その間にお返事を書きなさい。私のと一緒に届けさせます」
「でも、返事なんて」
「便箋はありますか? 私と同じ柄が嫌であれば、お金を渡しますから外に買いに行きなさい。早く買いにいかないとお店が閉まって……」
「た、珠世様!」

遮ったのは、珠世が自分の言葉を聞いていなかったからだった。
たしかに、炭治郎は珠世宛と一緒に愈史郎にも文を送ってくる。それは、珠世と炭治郎が協力して進めている鬼を人間にもどす研究について記した珠世宛の文とは違う。あれには、内容などない。取るに足らない近況であったり、任務で訪れた地で見つけた綺麗な風景だったり、生活する上で興味を持ったできごとであったり。まるで、文通友達に宛てるような。珠世と二人きりの世界で生きる愈史郎にとって、必要のないことばかりだった。
だから、愈史郎はいつも返事をしなかった。自分にはどうでもよかったから。
愈史郎が炭治郎とその妹をよく思っていないことを、珠世は知っていた。返事を書かないことについては、今までなにも言われたことがなかった。なのに、今まさら、なぜ。

「俺は、貴方だけで十分です」

茶々丸が暴れだす。愈史郎が抱えた腕に力をこめたからだ。苦しがって、逃れようとする。愈史郎はそれをよしとしなかった。

「あなたと一緒にいられれば、他にはなにもいりません」

くさい台詞であることは重々承知している。しかし、心からの本心だった。
愈史郎は珠世と二人の時間を邪魔する者が嫌いだ。大嫌いだ。許せない。
夜の浅草で、鬼を押さえつけて警官と揉める炭治郎を助けようとする珠世を、愈史郎は止めた。屋敷に招いて話をしたいと言う珠世を咎めた。それでも炭治郎達と関わりを持ったのは、珠世が望んだからだった。
すべては珠世の望みだ。愈史郎の望みではない。
暴れる茶々丸が愈史郎の手の甲に爪を立てた。痛みで一瞬力が緩んだ隙に、床へ飛び降りる。一直線に珠世の元へ駆けて行った。
珠世は抽斗を漁るのをやめて、茶々丸を抱き上げた。

「私たちはずっと、鬼を人間にもどす治療方法を探してきました。それは、私たちが人間にもどる方法を探すということです。そうですね?」
「……はい」
「私たちはいつまでも二人きりではいられません」

茶々丸は飼い主の胸元に縋り、ニャアニャアと甲高い鳴き声で苦情を述べる。珠世は茶々丸の尻の下に手を入れて、人間の赤子にするようによしよしと揺すった。

「炭治郎さんと禰豆子さんのおかげで、飛躍的に研究を進めることができています。私たちは、そろそろ考え始めねばなりません」
「…………」
「愈史郎、自分が人間にもどったときのことを考えなさい。一緒にいてくれる人を今のうちから探さないと」

それは珠世様ではダメなのですか。人間にもどったら、珠世様とは一緒にいられないのですか。珠世様は、もうずっと前から、人間にもどったときのことを考えてらっしゃったのではないのですか。
訊きたいこと、言いたいことが、山ほどあった。だが、愈史郎の口からは出てこない。珠世がそれを望んだからだ。
鬼が人間にもどる日が来た時。珠世が考えるその瞬間、きっと自分は隣にいないのだろう。誰もいないのかもしれない。それこそが、珠世の望みなのだ。だから愈史郎は、言葉を飲みこむ。
茶々丸が爪を立て血が滲んだ傷は、すでに塞がっていた。なのに、ずっと前から胸にある傷はそのままだ。鬼が人間にもどる日が来ても、愈史郎の傷が治る日はおそらく来ない。
珠世は、鳴き続ける茶々丸の狭い額をくすぐるように撫でる。手を止めることなく、根気よく。最初は「そんなことで騙されないぞ」と抗議を続行した茶々丸も、そのうちゴロゴロと喉を鳴らし始める。所詮、猫畜生である。
愈史郎も同じだった。治らない傷を負わされながらも、珠世に絆されて許してしまう。珠世がそう望むから。
床へ下ろされた茶々丸は、部屋の隅に残っていた煮干しを咥え、愈史郎の足へ頭突きを三度喰らわせた後に、部屋を出て行った。珠世は戸を開けてそれを見送った。それから、今度は戸棚を漁りだす。
うつむきがちに戸棚を見つめる横顔の、美しいことよ。愈史郎の胸は締め付けられ、傷はさらに痛んだ。痛み以上に、愈史郎を最も悩ますのものとは。

「よほどお返事を書きたくないのね」

押し黙った愈史郎になにを思ったのか、珠世がため息をつく。
戸棚の奥から道具箱を引っ張り出した。書斎机に下ろして、蓋を開ける。中身は紙だった。
長細かったり、掌ほどに小さかったり、分厚かったり、色がついていたり。和紙やら折り紙やら上質紙やら。菓子の包み紙、新聞紙の切り抜き、畳紙、包装紙。大小さまざまな色も形も材質も違う紙が、どっさり詰まっていた。
珠世は書斎机の上に紙を広げ、代わる代わる手に取っては、ああでもないこうでもないと悩み始める。めいいっぱい紙を集めた道具箱は、珠世にとって宝箱なのだろう。
愈史郎がどう口を挟んだものかと迷っていると、珠世は短冊状の薄い紙を一枚取った。ほのかに黄身を帯びた紙だった。

「では、一筆箋なんてどうでしょう。ひと言書くだけで済みますよ」
「そ、そういうことではなく」

愈史郎を最も悩ますのは、珠世が事を深刻に捉えていないことだった。
何百年も生きながらえていると、おおらかさにも箔がついて誰にも触れることができない高みに登ってしまうのかもしれない。そういうところも魅力ではあるのだが。相手にされいないということでもあり、気持ちは複雑だ。

「『お手紙読みました』だけでいいんです。とにかく書いてみなさいな」

広げた紙たちを箱にもどす作業を、愈史郎も手伝った。珠世の宝箱は棚にもどり、愈史郎の手には一筆箋が残った。いつの間にか握らされていた。
血液の分析を始めるからと、今度こそ愈史郎は書斎を追い出された。追い出されたと言うか、一筆箋を返される前にと珠世が遠慮がちに肩を押してくるのに、絆されて自分から部屋を出た。

「早めに読みなさいね」
「はあ」
「お返事はじっくり考えて書くのよ」
「わかりました」
「……ごめんなさい。わざとじゃなかったのよ」
「なにがです?」
「手紙の中身がね、少しだけ見えてしまったの」
「そんなこと」

まったくもってかまわなかった。どうせいつもの愚にもつかない近況報告だ。そうではなかったとしても、珠世に見られて困るようなことを珠世宛の手紙に同封してくる炭治郎が悪いだろう。愈史郎には珠世に見られて困るものなどなかった。
そんなことよりも。扉から少しだけ顔を出して、しかし、申し訳なさからか扉に隠れるようにしている珠世が、少女のように可憐で。暗い廊下で見ると眩しすぎて目が潰れてしまいそうだった。目が潰れようとも、決して逸らしたりはしないが。
研究で忙しくなるだろうからと、珠世をそっと部屋の中へ押しもどす。

「失礼します」

一礼して、扉を閉めた。行きは滑った廊下を、重たい足を引きずりのろのろと進んだ。

南向きの部屋にもどると、夜風に吹かれてカーテンが揺れていた。風に乗って、相変わらずオルガンの音が聴こえてきていた。先に掃除を済ませてしまおうと、炭治郎の文と南天、それから一筆箋を文机へ置いた。手から文が離れる際にため息が漏れてしまうのは、しかたのないことだろう。
放り出したハタキを拾い上げる。途中だった窓枠を拭う作業を再開した。柄の部分でガラスを傷つけてしまわないようにだけ注意して、木目に沿って何度も擦る。
隣の部屋から、茶々丸の気配がしていた。愈史郎に見つからないようにと、息を潜めている。愈史郎は爪を立てられたくらいでは怒らないが、自分以外が珠世の胸に縋ることについては沸点の保証ができない。意識して猫畜生の気配から意識を逸らした。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
オルガンの音は、いつも同じところで音が滞る。繰り返し練習しているのに、上達の兆しがさっぱりない。もしや、最初から楽譜がそうなっているのではないだろうか。そんな馬鹿な。
そもそも、これはなんの曲だったか。あれだ、あれ。喉元まで出かかっているのだが、なかなか思い出せない。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
炭治郎の文にはなにが書いてあるのだろうか。前の文はつい二週間前だった。大怪我をして二ヶ月意識を失っていた、とあった。二ヶ月ぶりに口にした粥がたいそううまくて舌が溶けそうだったそうだ。そうか、よかったな、としか言いようがない。言う相手が目の前にいるわけでもないため、愈史郎は黙って文をたたんだ。
兄の目が覚めて二週間もせずに、妹は太陽を克服したらしい。愈史郎は、鬼になってから日の光を一度も目にしていない。あたりまえだ。鬼なのだから。しかし、同じ鬼であるはずの竈門禰豆子は、日の光の下で笑っていると。

「…………」

ハタキを動かす手を止めた。机を振り返る。文と南天と、一筆箋がある。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
やはり、先に文を読んでしまおうか。内容を把握して、掃除しながら返事の内容を考える方が効率がいいのではないだろうか。きっとその方がいい。先に目を通しておこう。
愈史郎はハタキを下ろし、机に近づいていった。文を取ろうとすると、窓から強い風が吹きこんできた。文は机の上を滑り、愈史郎の手を逃れた。読んでやろうというのに、逃げるとは何事か。愈史郎はかすかな苛立ちを感じ、机から滑り落ちようとする文をふん掴んだ。
タラッタラッタ、タラッタラッタ。
文を手に、窓際へもどる。いい加減なユーモレスクはもういいと、オルガンの音を遮るように窓を閉めた。そうすれば、もう小憎い風が吹きこんでくることもない。
そう、ユーモレスクだ。ドヴォルザークのユーモレスクだった。ようやく、曲名を思い出すことができた。
かすかな満足感でもって、愈史郎は文を広げた。磨いたばかりの窓枠へ腰をかける。
文は、時世の挨拶に始まり、愈史郎の身体を案じる内容へ繋がっていた。寒くなりましたが、体調お変わりありませんかって。鬼に体調の変化などない。生きているか死んでいるかのどちらかだ。
ひととおり挨拶が終わると、禰豆子の話になった。上弦の肆との戦いの末、禰豆子が太陽を克服したこと。今は鬼殺隊の療養所の庭で看護師たちと遊んでいるとあった。よほど嬉しいのだろう。漢字の跳ね払いひとつとっても、紙の上で今にも踊り出しそうだった。愈史郎にはそう見えた。
なんとなく、わかるような気がした。炭治郎にとっての禰豆子は、愈史郎にとっての珠世だ。珠世が日の光の元で笑いかけてくれたりしたら、愈史郎は喜びのあまりその場に泣き崩れるだろう。感涙に咽びすぎて、足元が水溜りになるはずだ。考えただけで視界が潤んできた。
愈史郎は、慌ててで目元を押さえる。袖がじんわりと熱くなった。ず、と鼻を啜る音と一緒に、かすかに音楽が聴こえた。窓を閉めたのに、まだユーモレスクが聴こえる。いや、窓の外からではない。家の内から聴こえてくる。愈史郎は耳を澄ました。

「タラッタラッタ……タラッタラッタ……」

珠世だ。珠世がユーモレスクを歌っている。
先ほど愈史郎も無意識に口ずさんでしまっていたから、よくわかる。この軽やかな小曲は、耳にしているとつい唇が動くのだ。きっと、珠世も自身では口ずさんでいることに気づいていない。
かすかな歌声だった。囁くような、吐息のような。珠世の華やいだ気持ちが、空気に溶けて愈史郎の鼻先にまで漂ってくるような。甘美で柔らかく、それでいて拙さを感じさせる。愈史郎はついうっとりと聴きいってしまった。
めずらしいことだ。よほど機嫌がいいのだろう。禰豆子が太陽を克服したことを、自分のように喜んでいるのかもしれない。愈史郎は心の中で少しだけ禰豆子に感謝した。
珠世の歌声に耳を傾けながら、文を読み進めていく。禰豆子の報告がひと段落ついたため、今度はいつものような取り止めのない話が始まるのかと思いきや。

『愈史郎様、あなた様はこの文を読んでくださっているのでしょうか』

突然の問いかけに、愈史郎はたじろいた。読んでくださっているのかもなにも、今まさに目を通している。
ひとやねが少しだけ滲んでいた。書き出しに迷った様子が伺える。手が震えているような。愈史郎の名前を書き切った後は、勢いよく滑らかに筆を滑らせている。名前を書く間に、いったいなにを決心したのか。これから決心のいる話が始まるのだろうか。
炭治郎は、珠世宛と一緒に愈史郎にも文を送ってくる。でも、珠世宛の文と違って、愈史郎宛には内容などない。取るに足らない近況、任務で訪れた地で見つけた綺麗な風景、生活する上で興味を持ったできごと。珠世と二人きりの世界で生きる愈史郎にとって、必要のないことばかりだった。
だから、返事をしなかった。愈史郎にとって必要のないものなのだから、返事も必要ないだろうと。
それでも、必ずすべてに目を通していた。何度か読み返した文もある。寝室の机の抽斗にしまって、たまに取り出して。ほんの手すさびだ。珠世と二人きりの世界で生きる中で、少しだけ外の世界に触れられる。それだけだった。それだけだった、はずなのに。

『この文を読まれましたら、どうか一度だけ、一度きりでかまいません。お返事をください』

そんなに返事がほしかったのか。愈史郎はおどろいて、息を飲む。
毎度、愈史郎に関係のなことばかり好き勝手書き散らしているので、返事などどうでもいいのかと思っていた。
なんとなく。その先の、続きを読むのが怖いと思った。直感のような。本能なのかもしれなかった。それでも、目は続きを追ってしまう。

『お慕いしております』

愈史郎は、窓枠からずり落ちた。手紙を取り落として、床に尻もちをつく。
窓枠を磨きすぎたのかもしれない。それか、読み違えた文が衝撃的だったのか。いや、読み間違いではない。拾って読み直しても、同じことが書いてある。

『お慕いしております。先ほど、妹と手を繋いで日の下を歩みました。妹の手は日の光と同じくらい温かく、俺はどうしようもなく涙が出ました』

衝撃的な文章のすぐ後に、妹の話が続いた。なんなんだ。もしや、慕っているというのは妹のことなのか。

『あなたの手のひらは、温かいのでしょうか、冷たいのでしょうか』

思わず手のひらを見つめる。長らく珠世のひんやりとした指先にしか触れていないため、自分の手が冷たいのか温かいのか、わからない。どちらかと言えば、冷たいのかもしれない。

『妹のように温かければ、俺は涙が出るでしょう。冷たければ、俺が包んで温めます』

文を持つ愈史郎の手を、炭治郎がはしと握る。そんな幻を見た。炭治郎の手は、きっと熱いくらいなのだろう。この文は、炭治郎の手の温度を知っているはずだ。

『いつの日か俺と手を繋ぎ、ともに日の下を歩んではくれませんか』

そこまでを、愈史郎は床に尻をつけて読んだ。窓枠に手をかけて、よろよろと腰を上げる。

『愈史郎様のことをお慕いしております』

最後の駄目押しとばかりに、繰り返された。自分のことを、と書かれてしまえば、言い逃れはできない。

『どうかお返事をください。心より、お待ちしております』

文はそう締め括られていた。それから、二日前の日付と、竈門炭治郎と差出人の名前。ええい、ままよ、とでも思ったのだろうか。どことなく、投げやりに見える筆致だった。
文をたたんで、もう一度広げて。たたんで、広げて。それを五度ほど繰り返し、何度読んでも同じことが書いてあると気づいたところで。珠世の歌声が聞こえてきた。
そう時間は経っていないはずだ。珠世はずっと歌っていただろう。衝撃のあまり、耳に入っていなかった。

『愈史郎様のことをお慕いしております』

その部分をもう一度確認し、愈史郎は文机に駆け寄った。上にのった南天をどかして、一筆箋を取る。座る間も惜しく、抽斗にあった万年筆を握って書き出そうとした。
ああ、一筆箋では、是か否かくらいしか書けないではないか。もっと伝えたいことがあるのに。
他に便箋は持っていない。すでに店は閉まっている時間だ。珠世に頼んで、他の便箋をもらおうか。
もどかしく振り返ったところで、愈史郎の鼻先に珠世の華やかな気持ちが漂う。相変わらず、珠世は歌い続けていた。

「タラッタラッタ……タラッタラッタ……」

ごめんなさい、と謝る珠世の姿が思い出された。わざとではなかったのよ、と。少女のような可憐さでもって、書斎の扉から少しだけ顔をのぞかせて。
珠世はなんと言っていただろうか。手紙の中身が見えてしまった、と言っていた。愈史郎が珠世の言葉を聞き間違えるはずがない。華やかな歌声と同じ声で、珠世はたしかにそう言った。
思い出したとたんに、愈史郎は火を吹いた。顔が燃えるように熱くなる。

「タラッタラッタ……タラッタラッタ……」

珠世が歌うなど、めずらしいことだ。よほど機嫌がいいのだろう。それは、禰豆子が太陽を克服したことだけが理由か。もしかしたら、他にも理由があるのか。
愈史郎は、炭治郎の文と一筆箋と万年筆を手に、その場にうずくまる。もたげた頭が、机の足に当たった。机が揺れたことで転げた南天が、目の前に落ちてくる。
今きっと自分は、南天の実のように赤い顔をして、炭治郎の手のひらと同じくらい熱いはずだった。愈史郎は、いまさらすべてを自覚した。

「タラッタラッタ……タラッタラッタ……」

珠世は歌い続けている。愈史郎はうずくまったまま動けない。
愈史郎がようやく立ち上がれたのは、南向きのその部屋に朝日が差しこんでくるすんでのところだった。
     
 
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